とても不本意なことではあったのだけれど、けれど他にあてもなかったから、数人の部下に、呼んできてくれるように頼んだ。幸い、近くの甘味処での目撃情報が入ったのは数分前のことだったから。 口ではなかなか表現しにくい鈍い音を立てて、男の肩甲骨に、多分ひびが入った。理不尽な暴力に、もはや虫の息となっている男を、しかし晋助さまは殴り続けている。なにが原因だったのか、私は最初の一撃が繰り出される前にこの場にはいなかったからわからない。けれど、仲間であるはずの男のなにかが引き金となって今のこの状況になっていることは明白だった。普段は氷のように冷たく静かな晋助さまは今、素手で何度も何度も男を殴っている。もう一度言ってみろ、と、もはや残りの歯が少ない状態の男の口を開かせて、そして拳を入れる。鈍い音。男の血と、晋助さまの拳の血がだらだらと垂れる。歯が折れて、床に転がる。必死に助けを請う男は私の直属の者ではないから詳しくは分からないが、いつも酒を飲んでいて、腕が立って尚且つ、それを鼻に掛ける男であったような気がするが、そんな奴は大勢居るので人違いかもしれない。 私を含むその場の誰もが晋助さまの一方的な暴力を止めることは出来ないでいた。万斉でも居ればよいのに、奴はこんなときに限って出ていた。あのロリコンもどこかへ行っている。我ながら情けないことこの上ないが、自らでこの状況を打開する術は思い当たらなかった。 浪士がひとり、息を切らして飛び込んできた。 呼んできました! という、私にとっては不名誉であること甚だしい報告が、実際私や他の者をも安堵させたのだから癇に障る。けれどもそんなことを言っている場合ではなかった。浪士たちに連れられて着た男、桂小太郎は、目の前の状況に顔をしかめると、おもむろにふたりの間に割って入った。一瞬の、凄まじい殺気と同時に、狂った機械のように男を殴り続けていた晋助さまの手首を、桂が押さえつける。獣の色を宿した独眼が新たな獲物を睨みつけ、顔を確認したと同時に色を失った。沈黙のなか、殴られた男の瀕死の息遣いだけが部屋に響く。 「……ヅラァ、てめェなにしに来やがった」 晋助さまの問いに答えることなく桂は的確に指示を出し、男を運び出させた。晋助さまが声を荒げる。けれど桂を殴りに行く様子は無かった。人払いをし、最後に私に向かって薬箱を持ってくるように言うと、桂は後ろ手で襖を閉めようとする。 その一瞬に見えた晋助さまの、別人かとおもうほどに弱弱しい表情は、忘れようと思っても目蓋の裏にこびりついてはがれない。 ● 「随分暴れたな」 桂は俺の、ボコボコに膨れ上がった手に包帯を巻いていく。俺はそれを呆然と眺めるだけで、たとえは悪いが、射精した後のようなあの微妙な気分をもてあましていた。わかるのは、桂がここにいることと、右手が痛むことだけだったが、それだけで十分なような気がした。 「同士だろう。なぜあんなになるまで殴った?」 問いかけながらも桂は俺が答えないことをわかっている風だったから俺はそれに甘えて、答える代わりに接吻をねだる。舌を吸いあって互いに荒くなった息のまま、俺は包帯を巻かれたほうの手で桂の腿を撫でるのだが、それは途中で阻まれた。調子に乗るな、と睨まれる。 「てめェマジ、なにしに来たんだよ…」 「すくなくとも真昼からこんなことをするために来たのではないな」 「…………じゃあ帰れよ、もう収まった」 「ほう、帰ってもいいのか?」 もうなんというか、これは刷り込みに近いものだと思うのだが、俺は成長しても敵対しても、相変わらずこの男にだけは弱くて、立ち上がろうとする桂を繋ぎとめるために、奴の手を引き、首筋に鼻をうずめた。口には出さないが、桂はこうされるのが好きなはずだった。 殆ど見当はついているだろうに、しつこく原因を聞いてくる。 「で、なんで殴ったんだ?」 「………忘れた」 「なんだそれは、ではあの男は殴られ損ではないか」 「ンなこたねーよ。これに懲りて、もうあんな話はしなくなるだろうよ」 桂は薄く笑うと、餓鬼にそうするかのように俺の頭を抱え込んだ。抵抗するのも面倒だったので、されるがままにされておく。 「気にするな、」 「なにが」 「お前は過激だなんだといわれている割に繊細だからな」 「だからなにがだよ」 桂は答えなかったから、俺も何も言わなかった。 静まり返った部屋で、右手だけがじくじくと痛む。 俺達の過去はあまりに汚くて、俺達は当然、仲間なんて呼べるような代物ではない。けれどその向こうの、一番根っこの部分では、俺達は家族同然で、その中心にはあのひとがいる。其処に通じる部分には、たとえどんな些細なことであっても、踏み込まれたくは無いのだ。今も、多分これからも。 2008/07/03 『貴方の為に今日も泣く』 |