耳鳴りがしているような錯覚さえ覚える静かな夜に、桂は空に低くかかる満月を相手に酒を飲んでいた。いつもより質のいい酒を注いだ猪口に口をつけ、仲間達と過ごした過去に想いを馳せる。どいつもこいつも馬鹿で単純でけれど決して憎めない粋な奴だった。こと、高杉晋助は特に。年下の癖に何かと仕切りたがる男だった。生まれ持った才なのだろう。奴の周りには人が集まった。誰もが奴を認め、奴のために命を賭した。奴が最期の息を吸い込んだその瞬間さえ、皆が奴を慕っていた。時代の波に逆らいながら我武者羅に進んだ腕白小僧は、それなりに充実した一生を過ごすことが出来たのではないだろうか。少なくとも、無謀な理想を唱え続け、数多の犠牲を出し、結局時代の波に呑まれてしまった自分よりは良い人生だったに違いない。

 一瞬、月が嘲笑うようにぼやけて見えた。

 静かだった世界に何処からか三味線の音が聞こえてくる。
 馴染み深いあのリズムに重なるのは、すこし枯れた、けれど不思議と耳によく馴染む声。

『三千世界の鴉を殺し、ぬしと朝寝がしてみたい………』

 冗談のような口調、しかし真剣な表情で紡がれた都々逸は、彼自らが奏でる三味線の音と絡み合って桂の胸の奥に落ちた。同時に寄こされるまっすぐな視線はひどく艶やかで、しかしその真意には気付かぬふりをする。高杉は喉の奥で笑った。
『練習したのか』
『何を?』
『三味線』
『ああ、馴染みの女に習ったんだ』
 うまいだろう、と奴があまりにも、それこそ餓鬼のように屈託無く笑うものだから、詠われた都々逸の話をするタイミングを逃してしまった。否、正確には逃されてしまったのだ。云うだけ云って逃げる、結構卑怯なやり方だったが、今思うと、あのとき真剣な表情で解説などされていたらこちらの涙腺がもたなかっただろう。

 墓とよぶには余りにも貧相な石の下に、彼は眠る。
 労咳に苦しみ、幾度と無く吐血しながらも、奴は来るはずの暁を信じて止まなかったそうだ。最期の瞬間でさえ夜明けを語り、先生の教えを伝えたという。傍にいてやりたかった。派閥など気にせず、妙な意地も張らずに駆けつけて、あの手を握り締めてやりたかった。
「………晋助」
 耳に静けさが戻り、其れと同時に辺りを照らしていた月が雲に覆われていく。
「もう、寝るのか?」
 徐々に消えていく月光に僅か照らされた手元の酒を部屋の隅に押しやって布団にもぐりこむ。
「では俺も眠るとしよう」
 完全な闇に覆われた部屋で、桂は明日のことを考えていた。以前望んでいた光り輝く明日ではなく、もっと小さな当たり前の明日のこと。宇宙を飛び回っているあの男は羽休めの為に地球へ降りてきていると人づてに聞いた。もうひとりの男は年中暇だから愛用のソファでごろごろしているだろう。

久しぶりに3人で逢いに行くから。
何年経っても変わらない俺達を思う存分笑ってくれ。



『0413』2006/4/13

明日の貴方に捧ぐ