神田の胸の梵字がかたちを変えだしてから身体を重ねることは殆どなくなったけれど、しかしふたりは以前よりも話をし、以前よりも共に居るようになった。お決まりのようになっていた軽口は減り、かわりにラビは神田が嫌がるほど、歯の浮くような台詞をささやいた。身体を重ねるかわりに、ふたりきりのときは手を握り合い、何度も何度も愛を確かめた。

 でもユウはそのとき既に自分達が偽りだらけだということに気づいていた。俺も気づいていた。他愛も無い会話を繰り返したのは”そのこと”について口にするのを懼れたからだ。セックスをしなくなったのはあの忌々しい印から目をそらす為と、いい加減、非生産的な行為に絶望してしまったからだった。俺は、俺達は総てを知っていて、けれど総てから目を背けていた。俺達はあまりに弱かった。けれど、ユウにはほんの少しだけ、強さが残っていたのかもしれない。いや、もしかしたらあれは強さではなくて、唯の諦めだったのかもしれない。俺達は必死に逃げた。肺が悲鳴を上げるほど、浅い呼吸ばかりを繰り返して、鼓動を揺らして、運命とか使命とか、そういうものから目をそらすために、逃げて逃げて逃げてきたのに。俺の手は引かれた。指先が白くなるほどに堅く手をつないで走っていたはずのユウはあの日、あの月の無い夜に、ひとりで足を止めた。

 ― 聞いて欲しいことがある。
そのときのユウの声は、あまりに小さい声を出そうとしたために掠れていて、語尾は聞こえなかったのを今でも確り覚えている。いつものようにふたりでユウの、あのなにもない部屋のベッドに腰掛けて、どうでもいい話をしていたときのことだった。軽く相槌をうったりする程度だったユウが自分から話をするのを見計らったように雲は月を覆った。もともと細い月だったからたいした灯りにはなっていなかったのだけれど、それでも雲が出たことによってユウのなにもない部屋を照らすものはなにひとつなくなった。暗闇に、ユウの青白い肌と真っ黒で輪郭さえあやふやな瞳に小さく生きている煌きが俺の首を絞めた。ユウが口を開く前に俺は、俺の手の甲に重ねられていたユウの手を振り切ってドアまで歩いた。聞けよ、とすこし怒ったような口調で言われたけれど、俺は返事をしなかった。しようとしたのだけれど、そのまえに息があまり巧くできていなかったから、正直、それどころではなかった。もしかしたら頭の中では返事をしていたのかもしれない。けれどそれは勿論、ユウには届かなかった。態度で示す、を地で行くユウはけれど言葉で示して欲しいタイプだった。いつも愛してるとかエッチしたいとかそういうことをいうと必ず怒るのだけれど、でもその後に俺がまだユウを好きで、ユウを欲していることに安心したみたいに口元を緩めていたのを俺は知っている。だからあの時もユウは俺に言葉で示して欲しかったはずだ。けれど俺はそうしなかった。なにも言わないまま、俺は部屋から出て、ドアを後ろ手で閉め際、振り向かなかったけれど、でもそのときユウがどんな表情をしていたかなんて容易に想像できる。ユウは俺に絶望したはずだった。明日、謝ろう。そう思った。けれど同時に、俺はユウを恨んだ。

 あの日ユウは走っていた足を止めた。俺はまだ逃げたいのに。俺はまだ止まりたくないのに、なのにユウは足を止めた。俺は振り向いた。ユウの後ろに、運命とかそういうのが迫ってきていた。俺はまた逃げたくなってユウを急かしたのだけれどけれどユウは止まったままだった。もう走りたくない、とユウの顔が云っていた。でも俺は怖かったんだ。だから俺は握っていたユウの手を離して自分だけ逃げた。そっと重ねられていたあの手を、俺は半ば叩くようにして振り払ったんだ。ユウはずるい。一緒に逃げようと言ったのに、なのに俺をおいて、逃げることをやめてしまった。俺は、今度はひとりで走った。ユウは追いかけてこなかった。

 明日謝ろう。そう思ったのは本当だ。

 ― 聞いて欲しいことがある。
ユウが何を聞いて欲しがったのか、わからない。あんなに一緒だったのになにもわからなかった。それどころか俺は、あの夜ユウの話に耳を貸さなかったことを知っているのが自分ひとりだけだということに安堵していた。ユウが俺に絶望したことも、俺がユウから逃げたことも俺以外の誰も知らない。だから誰にも責められずに今日まで生きてこれた。それは多分、俺が生き続ける限り俺の中に後悔という形をして在り続けるのだろうけれど、それは”後悔している”と思い込むことでまたユウから逃げようとしていることと同じだった。





「丁度良かったねお客さん!ひとり部屋ひとつだけ空いてるよ」

 内陸の言葉で、宿屋の主人は「運が良い」と言った。確かに良いのだろうけれど、でも此処に来る前に水浴びをしなければ主人は俺を迎え入れては呉れなかっただろうから、そんな、主人のひとことで決まってしまうような運はこちらから願いさげだった。すこし太った主人に同じ言語で礼を返しながら、ふと思う。なぜひとり部屋なのだろう、と。それはまあ、他の部屋が空いていないから仕方ないのだろうし、俺達が男同士だから適当に言ったのかもしれない。まあそうだ。普通男同士でひとつのベッドに眠ってもなにも不都合なことはない。いや、体格的に問題はあるか。
 水を浴びる前の自分のようにみすぼらしい部屋の片隅に荷物を置いて、ベッドに横になった。酷く疲れていたのはユウも同じようで、俺は自分と向き合うユウの頬を優しくなでた。

「明日朝はえーし、もう寝るさ」

 俺が言い終わるよりはやくユウは既に目を瞑っていた。






2008/08/28