― お前なら、あの色をどう表現する?





 河を渡る舟に乗っている人間は皆、異様な雰囲気を纏っていた。
 目深にフードを被った老婆、ナイフにしては些か大型な刃物を飽きもせずにずっと眺めている青年、執拗になにかに怯えて震えている小柄な老人、独り言が止まない汗っかきの男、隣に座っている女性のウエディングドレスのような衣服は、血に塗れてどす黒い。だがその血の生臭さを気にかける余裕はなかった。早く逃げたい。それだけだ。

 国境になっているこの河を渡るのには本来定期船を使用するのだか、しかしここ一週間ほど続く雨で河の水量は増大し酷く荒れたため、運行休止になってしまった。現在は今朝までの雨が嘘のように止み、水面もだいぶ穏やかなのでおそらく明日の定期船は予定通り運航されるだろう。しかしこの舟に乗っている者にとっては同じことだった。これから不法入国をしようという奴らなのだ、正規の船に乗れない理由が各々あるに違いない。いずれは判明することだろうが入国審査を受けていないことで数日は時間を稼げるだろう。ラビは先日、教団のものと思しき人間に背後から撃たれたばかりだった。まだ癒えない傷を押えながらゆっくりと息をつくと、自分もかなりの生臭さを発しているというのに隣の女性が嫌そうに顔をしかめた。そういえばもうかなりの期間風呂にも入っていない。正直、それどころではなかったのだ。追われる側になって初めて知ったのだが、どこに敵が潜んでいるとも知れない恐怖というものは、予想以上に神経を衰弱させる。風呂はおろか、ここ数週間、ラビは睡眠も満足にとっていなかった。もし風呂に入っている間に、眠ってしまっている間に追っ手が来たら、そのときユウを守れるだけの力は今の自分には無い。イノセンスを教団に返した今、身を守るものといえば怪しい露天商から格安で買った弾詰まりしやすい短銃くらいだった。

ユウを守らないと。ユウを守らないと。ユウを守らないと。
ユウにはオレしかいないんだから。オレがしっかりしないと。オレが守ってやらないと。

斜向かいの男と同じように繰り返しつぶやきながら、ラビはユウを優しく撫でた。





― アンタ、相当の修羅場をくぐってきたんだろう?

 露天商はそう言った。この舟の存在をラビに教えたのも彼だった。人間にランクをつけることができるとしたら、自分やこの商人は最低ランクに違いない、 とラビは思った。通りを行き交う人々は皆彼らを見なかった。存在を認めてさえいないようだった。おそらく乞食の類と思われているのだろうが、それでも一向に構わなかった。もともと自己意識なんぞ有って無いようなものだった。それよりもラビが気にかけたのは、自分と同じようにみすぼらしい格好をした商人の言葉だった。

「なんでそう思う?こんなカッコしてんのにさ」
「オレァひとを見る目があんのさ。アンタは普通に生きてちゃ味わえないような恐怖を知っている。そんなナリしてるが、喧嘩も相当強いはずだ。そうだろ?」
「さあ……、オレは平和主義者なんでね。喧嘩なんかしたことねーよ」
「面白いこというじゃねえか、そんな射殺せそうな目ェしてるくせによォ!アンタ、間違いなく長生きするぜ。なんか、譲れない信念みたいなものを感じる……」

占い師にでも転職したらどうだ、 とからかうと、男は目をぎらぎらと光らせて笑った。





「もうすぐ対岸に着くぜ」

 そう言ったのはずっと刃物を眺めていた男だった。舟につるした小さなランプだけでは岸はおろか、水面もろくに見えなかったが、男がそういうのならそうなのだろう。適当に相槌を返すと男はにやりと笑った。

「なァ眼帯、お前がさっきから大事そうにずっと抱えてるソレは、そんなに価値のあるものなのかよ?」
「ああ、命よりも大切な……オレの心臓さ」
「なんだそりゃあ!矛盾してるぜ?」

 舟は砂に食い込んで、静かに動きを止めた。



2008/03/25