第2グラウンドには練習着に着替えた3人とジャージを身につけたひとり、あと暑そうな毛皮を着た一匹しかいない。土曜の正午少し前、本来ならば教室でLHRをしている時間帯なのだが、1年7組は担任の「HRつってもウチのクラスは別にすることないから解散!」の一言で、他のどのクラスよりも早い下校となっている。そういうちょっと緩い校風が、オレは気に入っている。当然のように午後から部活の4人は他の部員と昼飯を食うために集合場所である第2グラウンドに来ていて。あ、そもそもなんで土曜日に授業があるのか、というと、今日は休みを強制返上した校内模試デーだったからなのだが、まあそんなことはどうでもいいか。
ベンチの周りに、女子ひとり男子ふたり(言わずもがなクラスメイト兼チームメイトだ)がしゃがみこんでいる。3人が壁の役割をしていてオレからは見えないが、その中心にはマネジ曰く「相棒」、部員曰く「オレらのアイドル」な彼女がいるはずだった。ちなみに彼女が全幅の信頼を置いている女性は、オレらに彼女を頼んでから更衣室に向かった。
手にしていたケータイが短く震える。泉の『なんで7組の奴出歩いてんの?』メールに返信してケータイを閉じようとすると、3人の笑い声が聞こえた。篠岡や水谷が彼女の相手をするときに幼い子どものようにはしゃぐのは前からだが、花井まで「おお!」とか「うわ!」とか言うのはちょっと珍しい。気になって近づくと、3人に囲まれた彼女は笑顔で仰向けになっていた。篠岡の、女子にしてはすこし焼けた(といったら「女の子に酷いよ阿部君!」とぎゃんぎゃん吼えられる)手が優しく、柔らかい彼女の腿を撫でた。なんとなく、篠岡の本体(ていう言い方は自分でもどうかと思うけどでもそれ以外にいい表現が思いつかない)に目をやると、彼女を撫で続けているのとは逆の、つまり左手にはごっそりと。
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なにしてんの、と阿部が尋ねる。振り向いて確かめた顔はほんのちょっと嫌そうにゆがめられていた。同じように振り向いて阿部の顔を確認した篠岡は満面の笑顔で「毛、抜いてんの」とのたまう。そのあっけらかんとした言い方がなんかツボで、思わず笑ってしまったらつられたのか、隣の花井も笑った。見たらわかるし、とやはり嫌そうな顔のままの阿部に篠岡が、コーギーは換毛期の抜け毛が多いことを説明してやっていた。その合間にも腿からお尻のあたりに溜まっている抜けそうに白い毛束を引っこ抜いている。ほら、と見せた毛束は静電気で僅かに広がって、その様子に阿部は興味を抱いたようだった。アイちゃん自身嫌がってる様子はないし(というか構ってもらえて嬉しいっぽい)オレも再び引っこ抜く。ごっそり抜けると、なんだか気持ちいい。花井は、手は出さずにオレらが引き抜く毛の量に感嘆してるだけだ。なんか、あんまりこういうのはしたくないらしい。やればやみつきになるのにね。
結構ごっそり取れたので阿部に見せるために振り返ると、いつのまにかジャージに着替えた監督が阿部の後ろにいた。抜いた毛を入れる為にビニール袋を花井に渡して、オレらは左手の束を花井の袋に入れる。阿部君もやってみれば?と監督が笑顔で言った。
「9:1くらいでコーギーだからね、この時期凄い大変なのよ。しかもブラシよりも手で抜くほうがやりやすいしたくさん取れるし、それに結構面白いよ。面白いほどよく抜ける!」
普通に考えて柴とコーギーは半々なんだろうけれど監督の言うとおり、アイちゃんは尻尾以外は殆どコーギーと同じような見た目だった。阿部は言われるままにアイちゃんの正面にしゃがみこむ。アイちゃんは、野球部では、いつもハイテンションで遊んでくれる9組の犬好きコンビ、誰よりも近くに居てお世話してくれるマネジと並んで、なぜだか知らないけど特になにをしてくれるでもない阿部を気に入っていた。や、オレらのことも平等に愛してくれてるとは思うけどね。篠岡と阿部が一度に触ってくれるのは結構珍しいらしく、仰向けになったまま千切れんばかりに尻尾を振っている。ちなみにその尻尾が飛ばす砂粒はみんなオレに当たってるんだけど、まあ可愛いから許すとして。別に犬嫌いではない阿部が、いつもみたいに腹の辺りから腿を撫でて、抜けそうだ、と目星をつけた毛束をひっぱった。
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ウォン!!と、凡そ顔に似つかわしくないどすの利いた声で、阿部は吠えられた。直訳するなら、「なにしてんの!?それは地毛よ!!」だろうか。ちなみにさっきまでテンポよく振られていた尻尾は止まっている。水谷が漫画みたいに冷や汗をかき、篠岡は苦笑。監督にいたっては腹を抱えて震えている。どうやら笑うのを我慢してるらしい。そりゃそうだ。自分からけしかけるようなマネをしておいて笑うのはあんまりだろう。
急に、しかも最初の一発目に吠えられた本人はというと篠岡や水谷が抜いていたのより明らかに長くて茶色い毛を数本摘んだまま、ちょっと警戒してるアイちゃんにむかって真剣に「ご…ごめん…」と三橋みたいにどもりながらひとこと。途端に監督と水谷が爆発したみたいに勢いよく笑い出して、篠岡は至ってほのぼのと「可愛いねー」って、どっちのことをいってんだか。飼い主と水谷の大爆笑に驚いてテンションが上がったアイちゃんは勢いよく飛び起きてさっきよりも勢いをつけて尻尾を振り、目をきらきらさせながら紐を握っていた篠岡を引っ張って駆け出した。水谷もテンションが上がったらしく、ふたりと一匹を追いかける。今からそんなにはしゃいで大丈夫なのかよ。未だ毛を握ったまま、走りまわる連中を眺めている阿部に、監督は涙をぬぐいながら謝罪し、オレはとりあえずビニール袋を差し出してやった。
『やさしくしてよ』2008/06/08