提出期限は、明日だった。
最後のクラス替えをしてひと月と少し。6日前に新しい担任によって配られた進路希望の紙は、まだ白紙のままだ。だって仕方ないだろ。まだ将来のことなんて考えられない。勿論、漠然と思い描いてはいる。けれどまだまだ野球のことで頭がいっぱいなんだ。ずっと野球をしていたい。みんなとずっと笑っていたい。ずっと高校生でいたい。そういうことを愚痴ったら、元先輩で現同級生の浜田はちょっと泣きそうに笑った。
* * *
「そりゃそーだ。浜田にそんな話題だすほうがバカだろ。お前それでも元後輩かよ。つかオレ先輩にそんなこと怖くて言えねェよ」
阿部は鼻で笑ったけど、顔は真剣だった。放課後の教室で、阿部はオレの隣の席に座って提出期限を十数分過ぎた、真っ白ですこしよれた紙を眺めている。なにかと気が合わないまま3年目に入ったけれど、今はオレたちは同盟関係にあった。西浦高校硬式野球部3年において、将来の夢というか、進路が決まっていないのはオレたちふたりだけだった。
「っせーな……すぐ謝ったっつーの。…つか阿部はどーすんの?四大?」
「……わかんね。でも別に特にやりたいことがあるわけじゃねーから…専門は行かねーと思う……から、就職か四大なんだけど…な、」
「とりあえず大学は行っとけ、って感じだしな……世の中」
「……うん」
阿部は紙を見つめながら、右手でシャーペンを回す。考えるときの癖なんだろうけれど、あまり上手ではなく、何度も落としてはまた拾って回すを繰り返していた。
「結局それで兄貴も大学行ったしな…」
「ふーん」
泉家は自営業だったが男兄弟だということもありそれなりに放任主義で、したいことは自分で決めさせる、 何事もまず子どもの思うようにさせてみるという教育方針をとっている。だからオレが中学で野球をしたのは勿論オレの意思だし、西浦に入ろうと思ったのもオレの考えだった。両親は、間違わない限り何も言わない。それが楽で、そんな家庭で育ったから多分、次男にしては確りした性格だったんだと思う。でも此処に来て遂に道を見失った。やりたいことは野球だが、それで食っていけるわけはない。”子どもには可能性がある”とかいう話をよく聞くが、選べる道が何本もありすぎると、どうしていいかわからなくなる。どの道が正しいのか、どの道が未来へ続いているのか、まったく見当がつかない。
進路希望のプリントを配られるその瞬間まで、オレは将来から目をそらしていた。逃げていた。だって今は野球が楽しい。それだけでよかった。でも野球部の面々はなんだかんだで進路を考えていて、それを知ったときオレはショックを受けた。出遅れた、 とか思ったわけじゃないけど、なんだかショックで、そしてオレはなにも考えられなくなった。
「巣山、ケーサツ目指すんだってよ。栄口は就職っつってたけど、奨学金受けるっつってた。田島はドラフト狙いで……しのーかは看護系だっけ?沖も医療のなんか、っつってたし。…で、他の奴らはとりあえず大学らしい……」
阿部がまたシャーペンを取りこぼして、拾う。
「……三橋も?」
「三橋は家継ぐ為に大学だろ」
「あ、そーなの」
「しらねーの?…オイ、しっかりしろよ奥さん。喧嘩してんのか?」
阿部の、野球をしているにしては細すぎる指はペンを一周も回すことが出来ずに再び、今度は床に落とした。屈んで拾い上げる、そのときの阿部の顔はどこか泣きそうで、やはりオレとこいつは同類であることを確信した。
勘だった。でも阿部はきっと将来のことから逃げているだろうと思った。誰よりも野球が好きで、でも野球で食っていけるほどではない。親やこいつ自身の態度から、オレと同じように放任な家庭の育ちように見て取れた。別に傷を舐めあいたいわけではないけれど、でも阿部に話しかけてよかったと思う。
「……してねー…けど。多分オレが進路の話避けてンの分かってんだろ。あいつ、いらんところで敏感っつーか繊細だから、気ィつかってんの」
「なんつー微妙な夫婦関係だよ」
すこし自嘲気味に笑って、そのあと阿部は何度も失敗を繰り返していたペン回しをやっとやめたけれど、今度は指が白くなる程に握り締めている。
「……オレさあ、先輩、榛名なんだよ」
「は?……知ってっけど」
「じゃなくて、なんだかんだで一番先輩って思えるのが、アイツなんだよ」
「ふーん。で、それがどうしたんだ?」
「担任とか進路の教師とかもさ、『なりたいものを今思いつく必要はない。大学でそれを探すのもひとつの進路だ』みたいなこと言ってたじゃん?…でもオレ、なんか無理なんだよ、そーゆーの。あのひと、当然のようにドラフトでプロ行っちゃって…次元が違うって分かってるけど、…なんつーか、圧倒されるっつーかさ、……田島もなんだけど、身近にいるひとがすごいから、すごすぎてわけわかんなくなった……ちゃんと将来のこととか自分のこと考えてたらこんなんなんねーんだろーけどさ…」
「あー、ちょっとわかるわ」
同意したのに、阿部はオレを睨みつけるみたいな目で見てきた。いつもあざとい配球するときのニヤリ顔(オレの勝手なイメージだ。試合中、当然だけどオレの位置から阿部の表情は見えない)を向けられる。
「…なんだよ」
「泉は違うだろ」
「なにが」
「お前は、ちゃんとやりたいことあるだろーが」
「なんで」
「そーゆー顔してる」
「なんだそれ」
見透かされたように笑われる。昨日浜田にも同じ顔をされたのを思い出す。浜田はオレの髪を乱暴に撫でただけだったけど、阿部は当然ながらそこまで甘くはないようだ。嫌な雰囲気にちょっと泣きたくなった。こういうところがまだまだ思春期な少年だと、 自覚している。
「お前、なにになりてーの?」
「………なりてーっつーか、興味があるっつーか」
「そーゆーのを『なりたい職業』っつーんだよ。なにしたいの。ホラ、今言わねーとだんだん言いづらくなってくるぜ?」
いやらしい顔だ。今更だけど敵校じゃなくてよかったと思う。最後の夏も頼むぜ、 とか一瞬思ってしまって、脳内で激しく後悔した。口に出してないとはいえ、阿部にこんなこと思うなんて、意味もなく恥ずかしい。でもここで焦れると収集つかなくなりそうなので観念することにした。
「……美容師」
「………」
「なんかいえよ!!」
「…いんじゃね?似合ってる気がしなくもない」
「なんだそれ…つか似合ってねーだろどー考えても」
「しらねーよ。つか泉キモい。そんなナヨい性格じゃねーだろ、オメーは」
オレらの器用なスイッチヒッターさまはよ、 と更に性格の悪い顔でこっぱずかしい言葉を続けられて、今度こそ本気で照れてしまった。なんだこいつ阿呆か。つかオレが阿呆か。
「つかなんで美容師なろうと思ったの?」
「なんでンなこと訊くんだよ」
「今後の参考のため?」
「……ガキのころから、ひとの髪弄るの好きだったんだよ。中学は部活厳しくて坊主だったから、よけいに弄りたくなったっつーか……」
「へえ。じゃあマルしろよ、『専門学校』に」
「………お前、どーすんの」
阿部は何も言わずに外を見た。まだ夏のように低くない、けれど真っ青な空を教室の窓越しに見上げる。グラウンドから聞こえる部活動の声が聞こえた。今頃あいつらも第2でぎゃーぎゃー叫んでるに違いない。
2008/04/22『Goodbye Mr Low Power!!』
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