玄関に立っていた女性は怒ったような顔をしていて、オレなにかしたっけ?と思うまもなく勝手に上がられてしまった。無言のまま、持ってきた荷物をローテーブルにおいてベッドに背を預けると女性は動きを止めた。声も出さずに何かを我慢している彼女に若干恐る恐る声をかけると、まずは大きな瞳が、その次に首、そして体全体がオレの方を向いて、そのときには既に彼女は泣いていた。アホっぽいオレの顔を見て安心したのか、オレの名前を呼びながら、彼女は珍しく号泣した。どうやら篠岡は失恋したようだった。
互いの恋愛話をするようになったのは高校のときからだったが、こんなに泣いてこんなに落ち込んでいる篠岡をオレは初めてみた。しゃくりあげながらも彼女が一生懸命に喋った話を要約すると、篠岡が付き合っていた男が篠岡の友達と浮気をしてモメた挙句、恋人と友達を一気に無くしてしまったということだった。いまやドラマのなかだけでなく結構よくある話ではあるが、篠岡は(男を見る目は無いけど)普段そういう恋愛はしないのでショックを受けたんだろう。傷つくだろうから本人には言わないけど、実はオレは半年ほど前に、そいつと付き合うことにしたっていう報告を篠岡にもらったときから胡散臭い野郎だと思ってた。まあ篠岡のことだから、最低な野郎のことよか友達のことで落ち込んでるんだろうけど、オレに言わせればその女の性格は相当悪いと思う。





一時間ほど話を聞いた後、トイレに行って戻ってくるだけのわずかな時間の間に、篠岡はパジャマに着替えていた。どうやらお泊りセットを持ってきているらしい。本音を言うと今日はオレも仕事でちょっと疲れててベッドでゆっくり眠りたいんだけど、今のタイミングでそんなことをいうとまた泣き出すだろうから今夜は床にタオルケットで我慢しようと決心した。
泣きはらした瞼の下の色素の薄い瞳からはまた新しい涙が生成されている。チーン、 と鼻をかんで、篠岡はついにティッシュを一箱空けてしまった。とりあえず、もはや篠岡の私物のようになってしまった某有名球団のマグカップを差し出すと、ぐずぐず鼻を鳴らしながらもしっかりお礼を言うあたりが彼女らしい。砂糖多めのホットミルクでちょっと元気が出たのか、篠岡の血色は来たときよりだいぶ良くなっていた。

「おもいっきり泣いて、すっきりした?」
「……うん、ありがとう。…ごめんね……」
「いいよ、オレとしのーかの仲じゃん。で、どうする?泊まってく?」
「うん、ごめんね……えへへ。水谷君に今彼女いなくてよかったよ」
「コラちー!怒るよ!?……てか風呂は?…もう着替えてるみたいだけど」
「家で入った。シャワー浴びてるうちにだんだん悔しくなってきちゃって、そいで水谷君ち来たんだよ。……ホント、いつもごめんね……」
「もういいってば、こういうのはお互い様でしょ。……じゃ、オレ風呂入ってくるから、先寝てていいよ。…あ。しのーか明日仕事?」
「ううん、明日は休み」
「じゃ、一緒にどっかいこっか!オレも休みだから。失恋祝いに奢っちゃる」
「まじでー!じゃあケーキバイキングがいい!」

やっと笑った篠岡を見て、オレは少し安心した。

風呂からあがると、篠岡はスポーツニュースを観ながら電話をしていた。明日は朝から出かけるんだから早く寝るように言うと、篠岡は電話の相手に笑う。

「おおすごいね!正解!うん、泊まらせてもらって、明日は一緒にケーキ食べに行くんだよ……あ、阿部君!…は、甘いの苦手だったねー。残念だなあ、水谷君の奢りなんだよ!」

電話の内容から察するに、相手は間違えようもなく阿部だった。おおかた、贔屓のチームの話でもしてたんだろう。ふたりの相変わらずの野球オタクっぷりに呆れたけど、でもここまで回復したんならもう大丈夫そうだ。通話を終えた篠岡は、もうだいぶいつもの彼女に近づいていた。

「ごめんね、勝手にテレビ観て」
「いいよ。…阿部、なんて?」
「あ、そうそう。阿部君も明日休みだから一緒に行くって、バイキング」
「ええ!?なんで!?阿部、ケーキあんまり食べないでしょ!?」
「うん、でも『水谷が奢るんならいく』って」
「阿部……ホント性格悪いなー。まあいいや。電気消すよー?」
「うん、……水谷君」
「んー?」
「水谷君は、………ずっと友達でいてね」

豆電球が部屋を茶色に照らす。
オレは篠岡の顔を見ないように仰向けになった。

「しのーか。」
「なに?」
「オレら、友達じゃなくて、親友だよ」
「……うん」

篠岡は泣きそうに鼻を啜った。


2008/03/27『月夜恋風』