降り注ぐ日光はまるで今日の日を楽しみにしていたかのような優しさでグラウンドを照らす。ペンキをひっくり返したような深い青空に漂う雲は、まもなくの夏の訪れを思わせるように大きい。風は強すぎず弱すぎず、まさに体育祭にうってつけの日であったが、残念ながら今日は体育祭ではなかった。
立候補はないですかーないですねー。
教室内は静まり返っているわけではないけれど、教壇に立つ体育委員の声はやけによく聞こえた。木曜の6限目、LHRである。本日の議題は体育祭のエントリー表の完成。別におとなしいやつらが集まったクラスというわけじゃないし、団結力が無いわけでも仲が悪いわけでもないけど、今現在、体育委員が黒板に書いた右上がりの下手くそな字の下には誰の苗字も書かれていない。HR開始からもうすぐ20分が経とうとしていた。生徒の手が挙がるのを待つ体育委員。我関せずを決め込むクラスメイト。当然、委員の苛立ちは募っていくわけで。
「あのなー…みんなもう小学生じゃねんだから、こーゆーのから決めていかねーとダメなのわかるだろー!?おーい、7組さーん、7組のみなさーん、起きてますかー?…窓側ー、気持ちいいからって寝んなよーぶっとばすぞー。きーてんのかそこの野球部ふたりー…そーよお前ら。参加しようねー」
これが漫画だったら絶対にあのムカッってマークがこめかみらへんに出てるであろう体育委員の意見はもっともであったが、しかし手は一向に挙がらなかった。ちなみに彼の言う”こーゆーの”とはこの場合、『男女混合リレー』である。人気の無い(というか、しんどい)種目から埋めていかないと後々大変なことになるのは勿論クラス全員が承知しているはずだが、でも、もうちょっと待ってれば誰かが手を挙げるかもしれない、 とも思うわけで。けどみんながそんな風に考えると当然、時間だけが過ぎていくわけで。女子が隅っこで固まって「運動部じゃないしー」とか「足遅いもん」とか言う気持ちもよくわかるのだが、これでは埒が明かない。このままのペースだとたぶん、HRは放課後にも流れ込むだろう。延ばし延ばしにして、結局損をするのは自分たちなのだから集団社会というものはよくできていると思う。ああ、話がすごくそれた。でもあれだ、集団社会のすばらしさは一度誰かにしっかり語ってみたい分野でもある。栄口や篠岡あたりなら聞いてくれるだろうか。
体育委員が水谷たちを注意してもう3分経ったが、依然として手が上がる気配は無い。ちなみにオレみたいな性格の人間にとって今の教室内空気は毒ガスのようなものだった。今オレはオレが立候補してこの場が収まるのなら、 と動きそうになる右手を必死に抑えている。ここで挙げれば負けだった。小学生のころからこの雰囲気が嫌いで妥協して後悔したのは1度や2度ではない。ここは我慢だ、オレ!
誰が相手とも知れない(というか相手など居ない)戦いに内心躍起になっていると、同じく躍起になった体育委員が運動部員を立たせた。一番でかい声で不平を言ったのは水谷。そういえば今朝リレーは絶対嫌だと言っていた。それにしても、篠岡が素直に立ってくれたのにはうっかり感動しそうになった。そんな奴じゃないって判ってるけど「マネジだから…」っていって着席したままだったら主将という立場上若干辛いものがある。
「ったくしゃーねーな。じゃあオレ、やるよ」
聞きなれた声が妙に静まっている教室に響く。予想通り、視界の隅に、右手を軽く挙げた阿部と驚愕の表情で後ろの席を振り向く水谷の姿。
「どーしたの阿部!?怒られたから罪滅ぼししてんの!?」
「そんなんじゃねーよ。…だって長引いたら部活の時間減んじゃん…」
オレはこっそり、こういうところが阿部のいいところだと感心した。この素直さというか、素朴さがあるから、部員はみんな阿部の多少の(ではないかもしれない)我侭や口の悪さを許しているんだと思う。なんだかんだで根はいい奴だ、阿部は。
阿部にクラス中から拍手が送られて、けれど問題はまだ解決しない。まだ空席はあるのだ。しかし男子がひとり埋まったことにはひそかに安堵した。これで男子はあとふたり。クラス男子の半分以上が立っている今の状況で、残りのふたりに選ばれる確立はそんなに高くない。いつか、抽選会でくじ運がどうのこうの言われたことは今は忘れよう。そう思っていた矢先、オレらのキャッチは前の席の水谷の服を掴んでアホみたいなことを言った。
「こいつと、あとあそこのハゲも一緒ね。」
「お!男子決まり〜!みんな、野球部に拍手ー!夏大がんばれよー!」
すかさず体育委員が殊更大げさに拍手して、その手をそのまま素早くチョークにのばす。あっという間に見慣れた苗字がみっつ、1マス置きに並んだ。結構盛大な拍手に水谷はうろたえていたけど、正直どうでもよかった。頭が真っ白っていうか放心っていうか、とにかくきっと今オレの目は死んでいるはずだ。
「うえええ!?ちょっ、まっ…阿部!オレが足遅いの知ってるだろー!?つか今朝だってリレー嫌だっていったじゃんよー!聞いてただろー!?」
「うっせーよ。ウチのクラス陸部いないんだからしゃーねーだろー」
「そりゃそーだけど…ってちょっ、まッ、…!なに勝手に書いてんの!?つか花井!いいの!?だめでしょ!?なんとか言ってやってよ!」
半泣きの水谷からは見えない位置で、阿部は俺に向かって笑った。前言撤回。阿部は最低な奴だ。ひどい。あざとい。人として軸がぶれている。
阿部が顎でその辺をしゃくって、ふと周りを見てみると立たされていた運動部の男子はオレら以外全員着席している。みんなほっとした表情で、オレたちを見る目はどれも感謝の情で煌いていた。まぶしい。まぶしすぎる。
「この状況で断れるもんなら断ってみろよ?ええ?お前にそんなことができんのか?できねえよな?ナァ、主将さんよォ?」なんて阿部はひとことも言わなかったけれど、あの顔は間違いなく心の中で言っている。絶対言っている。言っているに違いない。まったくもって腹黒いことこの上ない。そしてオレは阿部の思惑どおり、この状況で断れる人間ではないわけで。
「………ごめん水谷」
「えええええ!うそー!?」
へなへなと崩れ落ちてそのまま机に突っ伏した水谷には今度なんか奢ってやろう。で、だ。問題は女子に移ったわけで、自然、クラスの視線はオレらのマネジに集まるわけで。嗚呼、本当に申し訳ないです。巻き込んでごめん、ホントごめん。断ってくれていいから!とは勿論心の中だけで言う。篠岡を見つめる視線が増えて、徐々に静かになっていく教室。最初はぼーっと黒板を眺めていた篠岡が、クラス中の熱いまなざしに気づくのに3分ほど掛かった。天然というかなんというか、まあそれが篠岡なんだろうけれど。周りを見回して、最後に後ろの席の友人を見て、その娘が重々しく頷いてからやっと、篠岡は素っ頓狂な声を上げた。
「うぇえ私ッ!?無理だよ無理無理!リレーなんて…」
当然だ。断るのが普通だよな。でもまあそこはさすが阿部。篠岡相手に執拗に食い下がる。確かに篠岡がメンバーだったら練習もしやすいだろうし、バトンの受け渡しもスムーズにいくと思うけど、それにしたって阿部の誘い方は強引だった。
「出てくれたらガリガリ奢るから」
「ちょ、阿部君…私別にそんなにガリガ…リ…好きだけど…」
「しのーか!オレもガリガリあげるよ!?ね、花井っ!?」
「え!?……お、おう…」
結局、野球部の熱烈なアプローチとガリガリ3つに落ちて(や、そんなことはないんだろうけど)、篠岡は見事メンバーに加わった。ちなみになぜ阿部が篠岡の好物がガリガリだということ知っていたのかは謎だ。いや、ガリガリおいしいけどね。
その後、体育委員の頑張りとクラスの団結のおかげでなんとか定時に解散できたが昇降口へ向かう途中の雰囲気は最悪だった。水谷のため息と無言の篠岡が(というか主に後者が)さっきのHR並みにオレの神経をすり減らしていく。そんなオレの苦労を知ってか知らずか、阿部は上機嫌だった。
「…お前さ、なんでさっきあんなマジになってたんだ?」
「え?よかっただろ、部活の時間へんなくて」
「そりゃそーだけどさ、それだけじゃねーだろ絶対。篠岡まで強制して…ホントごめんな。帰りガリガリ奢るわ」
「いいよいいよ!!みんな仲間だもんねー」
水谷がわざとらしく、放課後に入って10回目くらいのため息をついて、けれど勿論阿部はそれをスルーした。
「泉が男女混合のアンカーするっつってたから勝負しようと思って。西広も先週のうちに推薦で決まったみたいなこといってたじゃん今朝。だから面白そうだなって」
「はあ!?それだけのためにオレたち巻き込んだのかよ!?」
水谷がちょっと本気でへこみながら泣きそうな声を出して、それとは逆に篠岡は「すごい!面白そうだねー!」ってさっきまでの不満げな顔はどこへ行ったんですか。
「『それだけ』ってなんだよ。大事なことだっつーの」
「バっカ阿部!泉に足で勝てるわけ無いじゃん!西広とかプロだよ!?あれプロ!」
「なんだよ、やってみねーとわかんねーだろ!水谷!お前うちのメンバーで一番ダメそうだから今日から部活後残って練習な!」
「……阿部。阿部ってほんとにひどいやつだよ…勝手すぎる!つかふたりとも黙ってないでさあ!ほら、我侭に育っちゃった長男タカヤになんか言ってやってよ!」
「や、オレも長男だし…つかお前もだろ」
困った風に言ってみたけど、内心オレもちょっと楽しみだった。悪いほうで目立つのはダメだけど、そういうところで目立ったりするのは結構いいかもしれない。泉がリレーだったらきっと田島たちも一緒だろうし。
未だしつこく不満げな水谷の背中を、篠岡が軽くたたいた。
「どうせやらなきゃダメなんから、楽しんでするほうが得だよ!」
「……しのーかってさあ、ときどきすっげー男前だよねー」
「お前と違ってな」
言うだけ言って更衣室へ向かった篠岡を、どこかあきらめた風な顔で見る水谷の背中を、今度は阿部が勢いよくたたいた。
「なにごともやるからには全力。なにがなんでも男女混合は7組が勝つ!!」
青春ドラマのノリでふざけながら走り出たグラウンドは、1時間前とかわらず体育祭にうってつけな感じだった。
『楽しんだもの勝ち』2008/3/11
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