報告書を出した際、久しぶりにゆっくりしてください、とボス直々に労いの言葉を頂いて、そのまま通された客室の、その中央のソファに座っている人物を見て唖然としてしまった。相手も何も聞いていなかったのだろう、アンバーブラウンの双眸が大きく見開かれている。それじゃあ、あとは師弟水入らずで。などと意味の判らないセリフを残して去っていくボスを、やはり唖然としたまま見送った。あの人が一体何を思ってこんな愚行に出たのかは定かでないが、余計なお世話という言葉はこういう時のためにあるのだということは理解できた。

「そのー、なんだ……まあ座れよ」

懐かしい声に誘われるまま隣に座ると、入れ違いにディーノが席をたった。
部屋の隅に備え付けられた冷蔵庫を開け、一言。

「何が飲みたい?」
「ビール」
「りょーかい」

自分で言うのもなんだが、あまりに自然なやりとりだった。
昔に戻ったような感覚、昔がそのまま今に繋がったような錯覚を覚えてしまう。



セピアの記憶が鮮明に蘇って。



冷えたグラスに並々と注がれる安物のビールを眺めた。
泡が多い。ディーノは相変わらず、ビールを注ぐのが下手だった。

「久しぶりだよなー。5年ぶりくらいか?」
「さあ……忘れたよ」

本当に覚えていなかった。
唯、この男と酒を飲んだ記憶はあるので、おそらく成人するまでは会っていたと思う。

「いやー、恭弥もでかくなったよなー」
「おっさんっぽいよ、ディーノ」
「まじ?この前山本にも言われたんだよなー」
「………」

へらへらと笑う姿も、相変わらずで、でもとても懐かしく思えたのはきっと、最後に見たディーノの顔が辛気臭かったせいだろうとおもう。最後というか、最後のほう。最後の瞬間までの数ヶ月間。

別れた理由なんて、今となっては曖昧だった。
すれ違いや広がる距離に不安を抱いた、とかそんなドラマみたいな理由じゃない。簡単に言うなら、疲れたから。うん、一番しっくり来る理由だ。距離を埋めるための言葉を発することに、いつしかふたりとも疲れていて、幾度と無く繰り返される謝罪も睦言も、徐々に意味をなくしていった。愛しさは勿論あったけれど、それが霞んで見えなくなるほどに疲れきっていたのだ。

二杯三杯と、昔話とチープなつまみで酒を飲み交わす。
ディーノの話はもっぱらリング争奪戦絡みの古い話で、最近の話や仕事の話題はひとつもでてこなかった。疲れているのだ、と直感した。明日の彼の予定は知らないが、オフであっても、ディーノはもっと節度ある飲み方をする男だったように思う。酒に強い体質とはいえ、大瓶を開ける早さは尋常ではない。だらしのない大人になったものだ。しかし口の端から酒を垂れ流してグビグビ飲む男を気遣うのも馬鹿らしく思えて、まだ半分以上残っているビールを一気に煽るとすぐ隣から拍手喝さいを受けた。

「きょーや、良い飲みっぷりー!さすがオレの教え子!?」
「……酔ってるの?」
「よってねーよ!よってねーから!」
「はいはい解ったよ。でもあなた昔から………」
「……どした?」
「昔から………酔うと酷いから……」

別れたことを後悔したことは無い。
寂しくなかったといえば嘘になるが、別れたお陰で気分が楽になったのも事実で。今も、ディーノに笑顔が戻ったのだから、別れてよかったとそう思っていたところだ。

だけど。

「あー。あの頃は若かったからいろいろやらかしたよーなそーでないよーな」
「………」

酔っているとはいえ、こんな無防備な笑顔を見せるのは卑怯だと思う。
こんな姿、他の誰にも見せたくないと思ってしまうじゃないか。ただの我侭だと解ってはいるけれど、それでも、やっぱりディーノはずるいと思う。ずるくて鈍感で、たらしで。どうしようもなく憎たらしいのに、それとおなじくらいに、やっぱり今でも愛していたりする。

馬鹿だ、僕。
結構本気で馬鹿だ。

今更。
凄く今更。

それに自分から切り出した別れを 何年も経った今、取り消して欲しいなどと言えるほど、僕は馬鹿でも正直でも、素直でもない。それに、きっと後悔する。あとで悔やんで、結局二度と笑いあえないようになってしまうのがオチだ。

「きょーやさーん、潰れましたかー?」

こんな馬鹿な考え、すぐに捨て去るべきだとわかっているのに。
きっとお酒のせいだ。ビールで酔ったことなんてないけど、でも今きっと凄く酔っている。だから言ってしまってもいいだろう。酔いつぶれて寝て、全部覚えて無かったらきっと。

「ねえ、ディーノ………」

視線を合わせると今までのテンションが嘘だったかのように静まり返るからきっと本当に嘘だったんだろうとおもう。やっぱりずるい人だ。こうなることも解っていたのだろうか。なんにしても、僕にまっすぐ向けられた視線は、昔、ベッドの中で見上げたそれと何の違いも無くて。今すぐ抱いて欲しいと、身体の奥が疼くのが解った。

「恭弥……」
「ん」

彼しか呼ばない名前を紡ぎながら下りてきた唇を受け止めて、その懐かしい感触に鼻の奥がツンとする。泣きはしない。だけど泣きそうになるほどに、嬉しくて、切ない。角度を変えるたびに、深く絡み合うたびに、舌と一緒に思い出が今に繋がるように思えた。

「恭弥」

髪を撫でられ、吐息混じりに囁かれて、安心する。
恥を忍んで言う必要はもう無いだろう。

きっとディーノがベッドの中で、本気で口説いてくるはずだから。



む か し の こ い び と