酒と一緒にメモを渡して、初老のバーテンはカウンターの逆サイドに座るカップルのほうへ行ってしまった。たった今、殺しの依頼をしたとは思えないほど優雅に接客する様には舌を巻く。雰囲気の良いこのバーはカップルをはじめとした一般客は勿論、仲介屋を営むマスターのお陰で裏の人間もよく訪れていた。グラスに口をつけながら神田はメモを開く。彼はいつも完璧に仕事をこなすが、その分かなりの金を要求することで有名だった。依頼主は次期首相最有力候補の政治家。標的の特徴を見る前に、しかし彼は慌ててメモを閉じた。背後で目障りな朱毛がくすりと笑う。
あ、隠された。てかまた仕事?ユウってばそんなに稼いじゃって、老後は安泰さねぇ。仕事ばっかしてねーで偶にはオレとも遊んでよ。
おどけた、すこし高めの声が逆に、男の謎めいた(というと妙に格好良い風にとられるが実際はそんなものではない)雰囲気を増加させる。神田は不機嫌な顔を隠そうともせずに酒を口に含んだ。
普通隠すだろ…つか断言するが、俺はたとえ脳がとろけそうな程に暇になってもお前とは遊ばない。マジ?!ひっでーさ、みてホラ、泣きそう!目ェうるうる!
むしろドライアイじゃないかと思うような独眼を指差して男は笑った。こうして時たま目の前に現れてどうでもいいことを勝手に喋っていくこの男は、神田同様、こちらの世界ではそれなりに名の知れた人物だった。
俺をそこらへんの女と一緒にすんじゃねーよ。つかお前こそ仕事か?此処にくるなんて珍しい。………んにゃ、ユウの匂いがしたからふらふら~っと誘われてねぇ。……アホ。
当然のように隣の席に腰を下ろした男は若いバーテンとなにやら話し始めた。人の仕事に口を出さないのは業界共通のマナーなので、神田はふたりの会話を気に留めず、再びメモに目を落として、そして眉をひそめた。気配を感じたのか、隣の男が再び紙を覗き込む。どのみち一度目で既に読まれていただろう、 と今度は神田は紙を閉じはしなかった。なにさ、難しい仕事?いや、依頼者の敵対派閥の議員が雇ってる殺し屋兼用心棒らしいんだが…。そこまで言って言葉を濁す神田の肩を、男は馴れ馴れしく抱いた。なんか問題でもあんの?さも嫌そうに回された腕を払いのけながら、神田はひとこと、聞かない名前だ、 と呟く。

「なあラビ、お前、ディックって知ってるか?」

わずか下から見上げる漆黒の瞳に自分の姿が映っているのを眺めてから、男はやわらかく微笑んだ。彼がオーダーしていたロックにもメモが挟まっていて、マスターはどこか気の毒そうな、それでいて楽しんでいるような視線を一瞬だけ寄越したが、ふたりは(少なくとも神田は)それに気づくことは無かった。

「……さあ」

グラスの中で、氷が暴れる。



2008/3/18『48時間前のひとところ』