計ったようにタイミングよく雨が降り出したから、あの野郎は心底安堵したに違いない。戦いの終わりを告げた天泣のなかで、あいつは確かに泣いていた。一度は教団に背を向けたことへの後悔と、それでも尚自分を信じ続けてくれた教団の人間への感謝の意と、最後の最後で使命を棄てた自分への懺悔の念と。いろんな感情がまざって溢れ出たものは確かに、あいつの頬を伝っていた。
だから、よかったとおもう。
あの男が心の底から泣いて次に心の底から笑ったことが、何故だか自分のことのように嬉しく思えて、どうにもばつが悪くなった俺はいつものように輪から少しはなれた場所に居た。それでもよかった。十分だと、そうおもったんだ。
君にも等しく日は昇る
職を失ってしまったのだから少しぐらいがっかりしてもよいとおもうのだが、なんでもヴァチカンをはじめとした各国がエクソシストは勿論、探索部隊の下っ端まで一人残らず今後の人生を保証してくれるそうで、教団が教団としての活動を停止して既に3日以上経っているにもかかわらず、皆宴を終わらす気配はない。最も功績を残した最年少エクソシストが黙々と食事をする隣ではまるで母親のような表情のリナリーが笑っている。ふと、その場に居るはずの男が居ないことに気付いて、次の瞬間には馴染んだ気配を隣に感じた。
「おい、誰が隣に座っていいっつった」
「ユウの目が『ラビ、となりに座ってくれないかな』っていってるように見えたんさ。…ッ!あー…ごめん今のなし訂正します。だからお願い、割り箸喉に突きつけるのはホント止めてくんない?ってゆーか汁!そばつゆ垂れてッから!」
一通りおどけてからラビは深く微笑んだ。もう以前のようなどこか闇を持った笑みではなく歳相応の、たぶん本当の笑顔。随分長い間付き合っていたように思うがこういう類の表情にはまだ慣れていなくて、俺は出来るだけ自然に視線を蕎麦へ戻した。妙に聡いラビは多分俺の考えが読めたのだろう、今度はたまに見せていたいやらしい笑みを浮かべて俺の髪に手を伸ばしたが再び割り箸を突きつけられて笑顔をそのまま凍らせた。
「どいつもこいつも、いつまで浮かれてやがる。もうすぐ4日目だぞ…」
あー、そーいやあそろそろ空が白んでくる頃さねー。
応えながらラビは喉に添えられた割り箸をやんわりと抑えた。
「相変わらずさね、ユウは」
「……そんな年月経ってねェのにそう変わってたまるかよ」
「うん…でもホント、変わってなくてよかったさ。拒絶されたらどーしよーかと思ったけど、心もカラダも俺のこと忘れてなく…て……え、うそ。ユウ!刺さってる!刺さってるさ!?あーりえねー!普通刺すか!?ちょっとからかったくらいでコイビトの手ェ刺すか!?ちょ、血ィでてるし!ユウのバカっ!信じらんねー!」
「バカはてめェだろーが!つーかきったねー…。おい、新しい箸もってこいよ」
言われたとおり新しい割り箸をもって戻ってきたラビは今度は向かいに座った。もう相手にするまい、とひたすら蕎麦を啜る俺を眺めながら、真剣な口調だった。ずる賢いような笑顔もどこかへ棄ててきたようで、そういう切り替えは昔も今も巧いらしい。ずるいと思う。
「本当にさ、ユウには感謝してもし尽くせないんさ。ホント言葉に出来ない。オレの一方的な思い込みかもしれないけどさ、ユウはたぶん出逢った瞬間からオレのこと全部見抜いてて、それでもオレと一緒に居てくれたんだよな。オレの負担にならないようにしてくれて、でもオレが弱ったときは支えてくれて…。オレが…、オレがお別れしたときもさ、ユウなにも言わなかったけど。でもあのときオレには全部伝わってたんさ。」
周りには誰も居ないし小声だから聞かれる心配はないのだけれど、よくもこんな恥ずかしいセリフをさらりと言えるものだ。若干顔が赤いから多少は照れているのだろうけれど、その何倍も俺が恥ずかしい思いをしていることには気付いていない。顔から火はでないが、顔や体が徐々に火照るのを感じた。
「何度か戦ったときも、本気で命奪い合ったときも…自己中なクセにオレのことちゃんと考えてくれてて、本当にありがたかった。だから『ありがとう』とか『ごめんなさい』とか、いろいろ言いたいんだけど…。あーもー何言ってんだオレ!収拾つかねーさ!んーと。つまり総合すると、愛してるってことなんさ!うん!愛してる!」
「……最後の一言と『自己中』は余計だ。トレー返却しとけ」
「えーだってホントに愛してるんさー。てかユウ、行っちゃうの?もしかして怒った?照れてんの?つーかなんでお前の食事の後片付けをオレがするんさ?おーい、ユウちゃーん」
先ほどとは打って変わった間抜けな声を背に受けながら、騒がしい食堂を後にする。顔がひどく熱い。今時口説き文句にすらなりそうにない単純な言葉でも、久しぶりに聞けば割と恥ずかしいものだ。とりあえず、赤いに違いない顔を誰かに見られるわけにはいかないので部屋に戻ることにする。もうすぐ夜明けだが一眠りしよう。教団中が昼夜を問わずお祭り騒ぎなので、こちらまで時間の感覚が鈍ってしまった。元に戻すには眠らないことが一番なのだが、別に今でなくとも、と思う。
部屋にはまだ蓮がある。
エクソシストとしての目的は達成できた。次は個人的な目的を遂げるため、一段落したらコムイに断って旅に出るつもりだ。ベッドに腰掛け、呼吸を整えながら蓮の花を眺める。花びらはまだついていて、それに安心し、同時に苦笑してしまう。俺の望みはまだかないそうにない。花を保護するガラスに朝日が散った。
煌く光に釣られるように窓を向くと突然息が詰まった。ひどく白い光に焼かれるのではないかとおもうくらいに身体が熱い。瞬きも出来ず、指一本動かすことも出来ない。呼吸をするたびに喉が焼かれる。呼びたい名前はあるのに声が出ない。視界の端に花を捕らえ、愕然とする。熱さと痛さで正常に機能しない脳でなんども否定するが、そことはべつの場所にある冷めた自分はひどく、それこそ腹立たしくなるくらい冷静に事実を受け止めていた。
これが最期だ。望んだものとは程遠いし、あまりに突然だけれど、それでもこれが最期なのだ。
まだ宴会を続けているだろう仲間に、たぶん世界中の誰よりも愛しい人にちゃんとした別れを告げることが出来ないことは残念だが、今更遅い。愛していたと伝えるべきだったのかもしれないが、あいつの言葉を借りるなら「全部伝わってた」はずだからあまり悔いはない。
最期の最期でひとり惚気る俺のまわりに、白い闇が広がった。