南イタリアの海は以前任務で訪れた頃と変わらず美しい。
少し高い空から降り注ぐ暖かい日光が、エメラルドを流し込んだような海に反射して煌いていた。優しい風がふわりと髪を持ち上げたので、神田はゆっくりとした動作で、さらさら舞う髪をおさえる。この青い景色と同じように、彼の心は穏やかだった。すこし前を歩く男が振り返って彼に手を差し伸べる。この歳にもなって男ふたり、手を繋いで歩くことには勿論抵抗があったが、今日ばかりはしかたない、と差し出された掌に彼は自分のそれを重ねた。男は満足げに微笑むと、神田の手をひいて歩き出す。緩やかな坂が続く道を。
暫く歩くと色とりどりの石畳が次第に細くなり 何も無い道になったが、相変わらず坂道は続いていて、神田の呼吸が軽く乱れる。気付いた男が振り返った。疲れた?その独眼は不安げに揺れてるだけで、その唇は嘲笑もなにもあらわしてはいなかったけれど、それでもなんとなく腹が立った。
「馬鹿言え。……ッ俺はお前と違って体鍛えてるんだ」
「『鍛えてた』っしょ?」
「るせェよ」
はいはい、と笑いながら歩調をあわせてくる男に、神田はもう苛立ってはいなかった。昔から、この手の言い争いを始めると第三者、主に彼らより二つ年下の少女の仲裁が無ければ収まらないことは誰よりもわかっていたし、なにより、南イタリアの海を臨む、それこそ世界で一番贅沢な場所じゃないかと思えるような丘で、苛立ちを保つことができなかった。ここがもし、教団の一室だったら、あと小一時間ほど苛立っていたことだろう。
「ていうかさー、ユウ、昔から修行っつって目隠ししてたさ、上半身さらしで。」
「ああ。それがどーした?」
「今だから言うけどさ、あれホント、いろいろヤバかったんさ。何度襲おうと思ったことか!」
「修行中に押し倒される隙なんかつくらねーよ。つかお前、そんなこと考えてたのか……」
健全な少年だったからさー。
悪戯を仕掛けた後の子供のような笑い方に、神田もつられてしまった。自分はこの男に異常なまで甘いことを、神田は理解していた。それと同じか、それより多く、この男に甘やかされていることも、知っていた。だから、子供の頃のように、歯を見せて笑いあう。ふたりで笑うこのときだけは、重い運命も踏み潰した過去も、なにもかも忘れて、楽になることが出来た。それが『逃げ』だということは解っていたけれど、自分達は弱いから仕方ない。弱いくせに強がる奴のほうが、弱さを認める奴よりも弱い、とは唯のエゴかもしれないが、全くの不正解でもないと、神田は思っていた。『逃げるが勝ち』という言葉もあるじゃないか。
長い坂を上りきると、一面にエメラルドを見渡すことが出来る。
神田はやはり髪をおさえていた。こんなことならば結い上げてくればよかったのだが、下ろしてる方が色っぽいなどと言われたものだから調子に乗って、髪留めの類は何一つ持ってきていない。乱れた呼吸を整えながら隣を見ると、眩しそうに目を細め、男は海を見ていた。天才的な記憶力で、この景色まで記録するのだろうか。
ふわり、と風に乗ってオレンジのにおいがした。
「いい風さー」
「ああ」
足元を揺れる草は、まるでふたりを祝うように。
「いい天気だしー」
「……そうだな」
繋いだままの手に、そっと力を込めて。
でも視線はあわせずに、唯青く広がる空と海を見つめたままで。
「ユウ……なんつーか」
「……んだよ」
「愛してる」
「…………俺も。」
「ちゃんと言って!」
「……愛してる、ラビ。」
あー俺今、めっちゃ幸せさー。
やはり子供のように頬を染めて笑う男は、繋いでいないほうの手で器用に眼帯を外した。背負ってきた運命が、喜びも悲しみもなにもかもが宿っている右目が、ゆっくりと開かれる。
そのときがきたことは、もう十分すぎるほどに解っていて。そのときを早めたのが自分の梵字だということを知っているからこそ、神田は申し訳なさでいっぱいになる。それを悟ったのか、男は白くなるほどに手を握り締めて、啄ばむようなキスを寄こした。丘の先、断崖からエメラルドの海に向かって、眼帯を投げる。さわやかな風に乗ってそれは、どこか遠くへ飛んでいった。
「もう、いらねーから」
手を繋いだまま、断崖のギリギリまで歩く。ブーツに蹴られた石や砂が、ぱらぱらと落ちていった。風はかわらず優しく吹いている。草は変わらず揺れていて、海も変わらず、穏やかで。
「ユウ」
「なんだ」
「もっかい言って」
「……一回だけだぞ」
「ん」
「愛してる。これからもずっと、お前だけを」
最後のほうで声が裏返ってしまったけど、それでもその途端、嬉しそうに笑うものだから。
こちらも嬉しくなってしまって、間違っているはずのこの選択肢を正当化してしまいそうになりながら、微笑み返す。風に揺れる髪はやはり色気などなく、邪魔なだけだったけれど、もう一度、今度は深くキスをした。
手は繋いだままで。
いちばん好きな匂いと、いちばん好きなぬくもりに抱かれて。
きっとそこにあるはずの、真昼の楽園へ。
さあ、行こうか。
バタフライキス