ざけんな、と彼は怒鳴った。
投げつけられた枕を握り締め、うっすらと笑う。
その目には明らかな殺意が宿っていたけれど、それすら愛しく感じてしまった。その直後、平手か拳かわからないほどの衝撃が彼を襲った。
「また喧嘩?」
赤紫に腫れたラビの左頬をみたリナリーが苦笑交じりに濡れタオルをよこす。
それを頬に当てながらラビはくにゃりと笑った。タオルが濡れているという事実が判らないほど熱を持った頬はしかし、もう痛みも感じない。神経が麻痺しているのだろうか。リナリーは医療班に診てもらった方が良いと言うが、こんな顔では人前に出ることなど出来ないだろう。
唯一、何の抵抗も無く顔をさらけ出すことの出来る人物は、今目の前に居る彼女だけだ。幼いころから一緒に居て自分と彼の関係も熟知している。 俺たち二人が頭の上がらない唯ひとりの女性。
「あんまり怒らすと、そのうち愛想尽かされるよ?」
「縁起でもない事言うなよ〜」
ふたり揃って笑ってみるが、あまりにも乾いたそれが虚しく部屋にこだまするだけ。要するに、ラビが神田に捨てられる可能性は皆無ではないということをふたりは解っているのだ。 解っているだけに、ふたりの乾いた笑い声には痛いものがあった。
「あんまり苛めちゃだめだよ?繊細なんだから」
「へいへい。今回は100パー俺が悪いさ。酔ってたし……」
一度や二度のことではないし。
任務先の古びた宿屋で。
ラビが借りたその部屋はカビとヤニの臭いだけではなく、もっと艶のある甘ったるい香りが充満していた。その僅かな手がかりだけで昨晩女を抱いた事が解るのだから、将来良い小姑になるだろう。などと冗談を言う暇も、そのときの彼には無かった。
『………女?』
『ん?………ああ、昨日ちょっとさー』
神田が微かに眉をひそめて問うと、欠片も反省していないような声。そこで嫉妬し憤慨するほど子供ではないのだが、その翌日に自分を抱こうとする目の前の男の軽薄さが神田の癇に障った。その相手が、馬鹿みたいに香水をつけた風俗嬢だったのだから尚更。
神田はベッドに入るのを躊躇った。
『何、嫌?』
『別に』
明らかに嫌そうな顔をしている神田に笑いがこみ上げてくる。
『もしかして、妬いてる?』
『別に』
『ごめんごめん。でもさ・・・』
『なんだよ』
淀んだ空気の中、何も考えずに発した、そのヒトコトが余計だった。
『たまには女も抱きたくなるからさ。』
無言で睨む神田を尻目にラビが喉を鳴らして笑う。ほら、やっぱり嫉妬している。 本当に愛されているのは自分だけだという事を知っているくせに。あんな女は腐るほど居るし、お陰で任務に関る情報も手に入った。あんなことは唯の遊び。解っているだろう? 暇だったから、同じく暇そうにしていた女とヤっただけ。
其処には愛も下心も、何にも無いのに。
『だから、唯の―――――』
その言葉を最後まで紡ぐことは叶わなかった。凄い勢いで胸座を掴まれ、これまた凄い剣幕で怒鳴られた。
『莫迦にするな!』
声と同時に彼の手が風を切っていた。
「ラビ、滅多に酔わないのにね」
「んー。女にノセられてさァ」
「………実は純粋に情報収集の為、だったんでしょ?」
それには答えず、力なく笑う。
彼女もまた、笑みを湛えていた。まったく、この女性には敵わない。
「何年、近くにいると思ってるの?」
ずっとふたりと一緒に居たんだから。母親のようだと思った。母親を覚えてはいないけれど、それでも彼女が、馬鹿な自分達の母親のように思えた。
「タオル、貸して。」
「あのときのユウ、絶対俺のこと殺す気だったさ」
だいぶ温くなったタオルを差し出し、リナリーが持ってきてくれた氷嚢を頬に当てながら、冗談ぽくつぶやく。あの漆黒の瞳には怒り以外に、哀しみや憎しみも宿っていたような気がする。
「ユウはさ、優しいから。俺のこと見逃してくれてんだよね」
「……そうだね。」
「俺だったら絶対、殺すけどさ」
ラビの口元が卑しく歪み、一瞬、リナリーの目が見開かれた。 が、すぐに優しく細められ、クスクスと笑われる。 幼馴染だからこそ、以心伝心。
「だってさ、それってめちゃくちゃ“愛故”っしょ?」
氷嚢が効いてきたのか頬がチリチリと痛み出してきた。
アイユエ