横たえた体は微妙なトーンで繰り返される感情の波にゆられてしかし、意識は妙に冴え冴えと。


あれから、もうだいぶ経つ。


最後に寝たのは、いつだっただろうか。
眠れない日が何日も続いていた。夢見が悪いわけではないし身体は疲れて休息を求めているのに、意識だけがはっきりと目覚めたまま、まるで戦闘中の張り詰めた空気のなかに身を沈めているような、そんな感覚だった。細胞の一つ一つまでもが安らかな眠りにつきたがっているというのに、意識だけはひどく研ぎ澄まされている。不思議でいてとても辛い初めての状況にラビは戸惑うしかなかった。

教団に睡眠薬の処方を要請したが、明日にならなければ手元には来ない。明日になればこの不可思議な憂鬱ともおさらばなのだろうが、生憎、今のラビに明日を待てるほどの精神は無かった。気だるい身体をなんとか起こし、ベッドの上で膝を抱える。眠い。他には何もいらないから、眠らせてほしかった。
大きく息をつくと腹の虫が大きく鳴いた。そういえば、食事も数日摂っていなかったことを思い出す。そのせいだろうか、身体が冷え切っていて、寒い。寒さと眠さの狭間で、しかし意識は途切れることなくラビを苦しめ続けた。

こんな状況に陥るのは、初めてだった。

原因はわからない。病的でもなければ健康的でもない中途半端な生活を送っていた。寝たいときに寝て、食べたいときに食べて、お呼びが掛かれば任務に赴く。唯、その繰り返しだった。自分にとって至って普通な、いつもと同じ生活の繰り返しだった。

唯一つ違うことといえば、彼が居ないということだろうか。

不機嫌を隠そうともせず、整った顔を綺麗に歪める、懐かしい顔を思い出した。
最後に逢ったのは何時だっただろう。最後に触れて、あの愛らしい唇を啄ばんだのは、何時だっただろう。不確かで曖昧な記憶をたどってみるも、その答えが出ることは無い。ラビはまたひとつ息をつくと、広いとはいえないベッドに大の字に寝転んだ。大人一人が寝る為に設計された寝台を、独りで使うことは滅多に無く、だから、こうして独りで居ると。

「広………」

 何とはなしに呟いたその言葉も異様に広く感じる部屋に虚しく響くだけで、何故かは判らないが急に怖くなった。何ともいえない恐怖が背後から忍び寄ってくるような気がして、この部屋に居ることが恐ろしくおもえた。

「………ッ」

ラビは先程まで重くて仕方の無かった身体を素早く起こし、振り向かず、息を詰めて、急いで、出来るだけ早く部屋を出た。自室の扉を後ろ手に閉め、無意味に止めていた息を吐き出す。何にこんなに怯えるのかは判らなかったが、今閉めたドアを再び開ける気にはなれなかった。
大半の人間はもう就寝の時間だ。起きているのは徹夜続きの科学班の連中くらいだろう。其処に行って、おそらく、そいつらに付き合って徹夜しているであろう幼馴染に苦いコーヒーでも淹れてもらおうかと思ったが、情緒不安定な自分が行っても迷惑なだけだと、思い直した。何をするでもなく、彼は暫くその場で呆けていた。


* * *


無意識に歩くのは使い慣れた廊下。
無意識に脚が向かうのは通い慣れた部屋。気がつけばもう扉の前だった。おそろしく正直な脳と身体に、自然、苦笑が漏れる。

「何してんさ……俺」

自分で自分を馬鹿にしながらも手は、やはり無意識に2度、ノックをした。
勿論返答など得られるはずも無く、ノックしてからそれに気づいたラビは声を上げて笑い、ふざけた声とともにドアノブをひねる。そこは持ち主が居なくなる前と同じ、良く云えばシンプル、悪く言えば質素な部屋だった。必要最低限のものと彼の宝物しかないその部屋に入るのは久しぶりで、何故か胸が高鳴った。
部屋の最奥、皺ひとつ無いシーツに何のためらいも無くダイブすると、自分のそれより少しばかり上等なスプリングが優しく受け止めてくれた。とたん、まぶたが重くなる。眠い。頼むから、寝させて。

怖いから、暖めてほしかった。
寒いから、冷たい風が吹きぬける心の隙間を埋めてほしかった。
優しい白い手で、抱きしめてほしかった。

(ねえ、ユウ……)




























「人の部屋でなにしてんだ、馬鹿」

心底鬱陶しそうな声が聞こえる。
ああすみません、ちょっとだけですから、実際のところそういったかどうかは分からないが、どうでもよかった。久々の安心感。眠れるという確信の無い予感。心地言い声を子守唄に、夢の世界へと歩き出そうとした。が、更に度を増した不機嫌な「コラ、シカトたァいい度胸じゃねェか」と、いかにも彼らしい言葉が聞こえて、ラビは仕方なしに閉じていた目をゆっくりと開いた。
目の前に仁王立ちになりラビを見下ろすのは、切れ長な漆黒の目を細めて不機嫌をあらわにしている、長い黒髪を片方の肩に流した、世界で一番綺麗な男。

「………れ、……ユ、ウ……?」
「……それ以外の何に見えるってんだよ、寝惚けてるのか?」

何処までも俺様な、それでいて深い愛情を思わせる物言いが、その人物が彼以外の何者でもないことを物語っている。夢を見ているのかと思って何度か瞬きをしたが、それでもその人物は瞬く前と変わらぬ様子で、居続けている。余りにもラビがまじまじと観察するものだから、男は逆に尋ねるしかなかった。

「んだよ、ひとの顔じろじろ見やがって気色悪い…」
「あ、いや別に…じゃなくて、その、ちょっとね、ベッドを借りに……」
「はあ?自分の使え、自分の。言い訳にしてももっとマシなの考えろよ」

相変わらずな、人をちょっと馬鹿にしたような口調。久しく聞いていなかった声が、たまらなく暖かくて、嬉しくて。だから、恥ずかしがって暴れるのも構わずに、ほっそりとした腕を引いた。すんなりと腕の中に収まった彼を、ラビはゆっくりと抱きしめた。壊れ物を扱うように、慎重に。文句を言いつつも「放せ」とは言わない彼に、ラビはひどく安心した。ながれる黒髪に口付けると、そのまま首元に顔を埋め、肺がいっぱいになるほど深く深く息を吸い込む。噎せ返るように甘い匂いが、彼をやさしく癒していった。

「俺さ、眠れないんさ……だから、お願いなんだけど、ユウが俺を眠らせてくれませんか」
「キモ……寝言は寝て言え」

うん、でもさ、ユウの隣なら、きっと眠れるだろうから。
何も考えず、深いところで静かに眠れるだろうから。

久しぶりの『お願い』を口では一蹴したが、しかし細い腕はゆっくりと、確りとラビを抱きしめた。慈しむように髪を撫でられ、あやすように背をたたかれる。その余りに贅沢な抱擁に身を任せて、ラビはまたゆっくりと目を閉じた。今度は、夢も見ないほど深く眠れる確信があった。



もう一度目を開けたら、きっとお前は居ないだろうけど。



『EDEN』2005/08/10 - 2008/02/14修正