「はない」
すこし舌足らずな口調で阿部がオレを呼ぶときは、大抵もう目がとろんとしてて実際のところ自分が何をして何を言ってるのかなんて分かってなさそうなときで、それはたとえば酒を飲んだときとか、あるいはイカガワシイことをしているときなんかに起きるのだけれど、オレはそれが本当にどうしようもなく大好きで、だからそういうときはもう自分でも止められないくらいに阿部を抱きしめてそれこそ頭から食ってやりたいほどになるんだ。
けれど当の阿部はあんまり覚えていないのか何なのか、酒飲んだら寝ちまうし、シたあとは(恥ずかしいのもあるんだろうが)どことなくよそよそしい態度になってしまうから、あいつが「はない」ってオレを呼ぶのは本当に僅かな間だけで、だからそのぶん相当レアな現象だった。それだけにオレは阿部の「はない」がどうしようもないくらいに好きなんだが、それを阿部本人に知られたいか、といわれると勿論知られたくはないのである。恥ずかしいし。
「はない」
確かに今阿部は「はない」と言った。あの舌足らずな口調で。オレを芯から揺さぶるような声で。けれど今は酒を飲んでいるわけでもなければ仲良くしているわけでもない、更に言うならば此処は学校であり、現在視聴覚室で交通ルールに関する映画(?)を見ている最中なのである。
オレの聞き間違いかと思ったが隣を見ると阿部はいつもの、あの意地の悪い、どうしようもなく可愛らしい顔をこちらに向けていた。
「……なに?」
やっとのことで搾り出した声は喉に殆ど残してきていてかすれきっていたけれど、それは確かに阿部の耳には届いたはずだった。にもかかわらず阿部は何も言わず、ぷい、と前を向いてしまう。何なんだ?からかわれているのか?考えているとポケットに入れていたケータイが震えた。メールだ。差出人は阿部隆也。よっぽど暇なんだろう。
『暇。』
オレはため息をつきながらも返信する。メールを返さなければ阿部は少し不機嫌になるし、それ以前に阿部からのメールをシカトすることはなんかあんまりにも可哀そうで出来ないオレがいる。や、可哀そうなのはこんなメデタイ頭をもってるオレのほうなんだけど
『もうちょっとだから頑張れ』
『だるい…水谷寝たし……叩き起こしてー!!』
確かに、阿部の横の水谷は机に頭をこすり付けるようにして微動だにしない。起きたとき、鼻と額が赤くなってるパターンだ。
『寝かせといてやれよ!』
『さっき呼んだの、きこえた?』
無視か。そしてさっきのはやっぱり幻聴ではなかったんですね。面倒になったので、視線で「きこえてた」と返すと、阿部はにやりと笑って。
『花井、あの呼び方されるのかなり好きだろ』
顔から火が出るほどに恥ずかしかった。ていうか絶対に顔が赤いはずだ。マジ、視聴覚室暗くてありがとう。そして阿部は気づいてたのか。
内心複雑な思いを抱きながらメールを返す。
『水谷で遊べないからってオレで遊ぶのはやめてください』
『遊んでねーよ。甘えたいだけ』
阿部は頬を机に寝かせ、オレを見上げる体制になった。居眠りするつもりなのか、恥ずかしがってるオレを下からみてやろうと思っているのかわからないが、オレにとってその体制は所謂、そういうときにベッドで阿部が誘ってくるときの角度そのままで、オレは健全な高校生だからもうほんとうにやばいのなんのって思っている間に、オレの百面相がよっぽど面白かったのか、阿部は小さく喉で笑うと、自分の右足をオレの左足に絡めてきた。
「ちょ、阿部…ッ」
『オレ、ひとの体温とくっついてると安眠できるんだよ』
メールを送ってくるやいなや、漫画みたいにソッコーで寝てしまった阿部をどうしようか考えて、結局何に対してもチキンなオレはとりあえずプロジェクターを真剣に見つめることにした。
けれど、映画がいくら丁寧に図や映像を用いてトラックの内輪差の説明をしてくれても、残念なことにオレの脳にははいってこなかった。
『もうどうにでもなれ』2009/12/29
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