「怖い話をしてやろうか」

日誌を書く手を止めて、不意に阿部が言った。
珍しく監督不在だったので練習は早めに切り上げたのだが、一日中の曇天と、冬という季節のせいであたりはすでに暗い。校舎も、使われていない特別棟の灯りは既に落とされていて、オレたちふたりを照らしてくれるのは部室の小さな電灯だけだった。そう、ふたり。ほかの部員には帰ってもらった。言い訳するわけではないが、別にふたりになるために帰らせたのではない。皆それぞれ用事があるみたいで、自主的に帰っていった。こういうときたいてい水谷は最後まで残っているのだが、今日は篠岡と先約があったようで先に帰ってしまった。オレは最近密かにあのふたりデキてるんじゃないか と思ったりしているのだが、まあそれは今の状況には関係のないことだ。
というか本当はオレもまっすぐ帰るつもりだった。双子と約束があったから。けれど帰ろうとかばんを背負ったときにタレ目のほうの副主将に呼び止められてしまった。

『待っててよ』
『……なんで』
『寂しいじゃん』

仮にも、その、アレだ、お付き合いさせていただいている相手にそんなことを言われて、でも用事あるから。 と断れるわけがない。正直に言おう、そのときオレは期待していた。いや、今も期待している。けれど阿部隆也という男はいつもいつもオレの遥か上をいく奴で、つまり何が言いたいかというと、このタイミングで怖い話はないだろう!? ということだ。

「いらね…つか早く書けよ、寒い…」
「書いてるよ。でもただ待たせるのもアレだから話しようと思って」

そこでなんで怖い話をチョイスするのかが謎だが、でも怖い話を聞いてほしそうな阿部の可愛さはちょっと半端じゃないくらいで、オレほんとこいつに殺されるんじゃないか とか思いながら促したら、これまたすごい笑顔向けるから始末に終えない。もう勘弁してくれ。

「結構前の話なんだけどさ、ココの。」

ココって言いながら机を指したから、西浦高校の話なんだろう。それか部室か。どちらにしろ、身近過ぎて微妙だった。学校の七不思議とかいうやつか。阿部がこのテの話が好きだとは思わなかった。

「昔、部員が居てさ、」

軟式か硬式かは分からないが野球部だったそいつは毎日毎日朝から晩まで監督にしごかれていた。キツい部だった。ある日、そいつは朝飯を食うのを忘れていてひどく腹をすかせていた。けれど基本的に部活中の間食は禁止されている。だがそいつは我慢できずに隙を見て部室に走った。見つかればただではすまない。そう分かっていても我慢できなかった。耐えられなかったんだ。静かに、けれど急いで持ってきていたパンの袋を破って一口頬張った。そのとき、そいつは部室に近づく足音を聞いた。おかしい、こんな半端な時間に部室にくる奴なんて居るはずない。もしかしてバレたのか!?ドアに影が映る。そいつは焦った。焦って食いかけのパンを、ロッカーの裏に押し込んでしまった。

「それから半年……、そのパンは今もロッカーの裏に眠っている。変わり果てた姿で、な」
「……………処分しろ」
「…やだよ、見たくねーもん」
「…処分しなさい」
「花井やってよ」
「ふざけんな。てかオレも見たくねえよ」
「大丈夫だって、今冬だし」
「ならなおさら自分で処分しろ!てか半年前っつったら夏じゃねーか!あーもー考えたくもねえ!つかなんで隠したんだよ!?」
「それがさあ、いちごのパンでさあ、見つかったらなんか恥ずかしいじゃん。相手水谷だったし、あいつに食い意地張ってると思われたくなかったし、たかられるのも嫌だったから隠した」
「だったらその日に回収しろよ……ったく」
「思い出したのが先月だったんだよ」

どうやら日誌は書き終えたようで、珍しく擦り寄ってきた阿部はほかの奴の前では見せないような極上の笑顔で。

「頼むよ、キャプテン。お礼になんでもシてやるから」
「………おまえなぁ…」

にこにこと機嫌のいい様子から、おそらく阿部のほうがシたいんだろう と思ったけれど、そういうことを言うとごねるので、黙ってロッカーの裏、教えられたところに手を突っ込んだ。確かに、ビニールの感触は、ある。嫌だ嫌だと思いながらもそれを暗闇から引きずりだそうとするオレの、あろうことか耳元で、阿部はやはり楽しそうにささやいた。

「ゴキブリが卵とか産みつけてたりしてな」
「~~~~~ッいいかげんにしろよもー!」


『こわいはなし』2008/2/21