うなじに少しかさついた感触をうけて、思わず菜箸を取り落とした。これが包丁だったら今頃キッチンは血の海だろう なんて考えながら足の上に落ちたそれを拾おうとする前に腰に腕を回される。正直に言って、このひとの、こういう偶に見せるどうしようもなく甘ったれなところも嫌いではないのだけれど、今は勘弁して欲しいと思った。
「腹減ったっつったのアンタでしょうが。邪魔しないでください」
「邪魔じゃねーよ、キスしただけ」
「十分邪魔だっつの。ほら、箸拾うから……」
 離れてください と言う前に、不満を口にしながら元希さんが箸を拾った。受け取って、水で洗って鍋に向き直る。その間、腰に回された腕は邪魔にならない程度にそのままだった。どうも今日は甘えたい日なのかなんなのか、んー とも、うー ともつかないくぐもった声をだしながら今度は肩口に顔をうずめられる。面倒といえば勿論面倒なのだが、好きなようにさせている限りおとなしいので放置することにした。
「なあ」
「なんですか」
「おまえさー、サクラと仲良し?」
 からかわれるのが嫌だから白状しないが、本当のところを言うと頼むから顔うずめたまま喋らないでくださいって気持ちでいっぱいだった。ヘンな気持ちになるとかそれ以前に、なんか生理的に無理。下手すれば震えてしまいそうな肩に力を込めると元希さんが喉の奥で笑った。畜生、確信犯かよ。
「サクラって…佐倉大地ですか?…メールは偶にしますけど、高校以来会ってませんよ。あ、大学のとき一回試合当たったかなぁ…でも話はしてないと……急にどうしたんですか?てか田島に聞いたほうが早いでしょ」
「田島とは話したくねーの。つか田島には聞けない話なんだよな〜」
 首元でうにゃうにゃ言われて、だから本当頼むからソレやめてくれって思う。けれどそれについての不平を言う前に話の内容が気になった。なにせ子どもの頃から贔屓にしているチームの、今や欠かせない戦力なわけですから。元希さんには悪いけれど非常に気になるところである。
「大地、どうかしたんですか…?まさか故障とか…?」
「……なんで名前呼びなんだよ」
「んなことどーでもいいでしょ。何でいきなり…」
「や、どんな奴かなぁと思っただけ。リードとか性格とか」
 いつものえらそうな態度は何処へやら、元希さんの口調は好きな娘の好きなひとを第三者に尋ねる小学生、もしくは隣の部屋に越してきた同学年男子を気にかける小学生のようだった。どちらにしろ、小学生だ。
「さあ…どうでしょうね。高校のときはワンパターンでアホ丸出しなリードでしたけど、大学いってからはわかんねーな。てかあれ?…ふたり、球宴で組みませんでしたっけ?」
「組んでねえ。…………実はさ、此処だけの話、……佐倉ウチのとトレードかもしんねェの」
 とりあえず火を消してから身体をひねって、たった今問題発言したひとを振り返る。当然のようにキスされたのが腹立たしかったけれど今はそれどころではない。今の心境はトレード?ふざけんな。ウチの大地はどこにもやらん! という佐倉の父のそれだった。余談だが、佐倉父にお会いしたことは無い。
「嫌だよ。なんで?だれと!?大地と釣り合うひとですか!?てかそんなことされたらウチの若手大砲田島だけになるじゃないですか!だいたいアンタんとこ金あるからって最近よそからもらいすぎじゃないですか?」
「ちょ、落ち着けって。まだ決定したわけじゃねえし!白紙になるかもしれねえっつーかその確立のほうが高いんだよ…まだ検討の段階らしいし、俺も先輩に聞いたから嘘か本当かわかんねーし、それにあっちが佐倉手放すとも思えないしな…あと、うん、お前の言うとおり、最近ちょっと不評だし…まあ実際問題ウチが大砲欲しいのは事実なんだけど…てかお前、俺の前であっちのこと『ウチ』って言うなよ、地味に傷つく」
 宥めるように背中を撫でられて、普段ならちょっといい感じになるかもしれないけど本当に今はそれどころじゃない。大地が抜ければ来季優勝の可能性は一気に下がるのだ。例年優勝を争うチームのエースピッチャーである元希さんは対田島意識過剰だとはいえ、投手は元希さんだけではない。というか、それとは別な、榛名家の大事な長男を預かっている保護者(仮)としての問題もでてくるわけで。
「……組むんですか」
「へ?」
「大地がもしそっちにいったら、バッテリー組むんですか?」
「どーだろーな…固定じゃねえしわかんねー……てかさー、どーするよ?もし佐倉と俺が組んで『球界一の男前夫婦』とか言われたら!やべーよな!ファンも仕事も増えるしな!な?」
 アホ面を隠そうともせず(まあ隠す必要は無いのだが)上機嫌で笑う元希さんは放置して、鍋を再び火にかける。よく考えれば元希さんのいうことはもっともだった。ウチが佐倉を手放すはずが無い。噂にもならずに、おそらく身内に関係者のいない一般人が知ることなく消えていく話だろう。けれどまあ、今現在の話のネタにするには丁度いい話題だった。
「そんなことになったら『球界一のアホバッテリー』っていわれるのが目に見えてますけど。つかそこなんだよ、心配なのは。アンタら本当顔だけだからな!アホで売れるのは芸人だけですよ。ファン激減」
「んだとタカヤてめェ、その男前な顔に惚れ込んでるのはどこのどいつだよ!?!」
「……オレこないだ偶然マサヤさんにあったんすけど、」
「話飛ぶなぁ…。マサヤって…シニアの?」
 煮汁が丁度良い色になったので出汁を小皿にとって味見係に差し出す。今夜のメインは鰤大根。正直、煮物には自信が無いのだが、昨日元希さんが田島に貰ってきた大根(勿論田島の実家で育ったものだ)はえらく立派なもので、これは美味しく調理しなければ と思い母親に電話してみると、ご丁寧にファックスで作り方を送信してくださった。というわけで鰤大根なのだが。
「そんな飛んでないですよ。そう、マサヤさん結婚するって。授かり婚だそうですよ……どう?」
「マジかよ!?あいつそんなキャラだったか?…美味いけど…若干薄い」
「もうちょっと煮詰めますし…まあ美味しくなるのは明日の朝でしょうね。つか中学からそういうキャラだったら人としてどうかと思いますけど…てかそいで、昔のこととかちょっと喋ったんですけどね、オレ知らなかったんですけど、つかオレたち以外は皆知ってたらしいんですけど…元希さんとオレ、他のチームからなんて言われてたと思います?」
「あー?『オシドリ夫婦』とか?………冗談だっつの」
 今現在手元に鏡がないのでわからないが元希さんがオレの顔を見てすぐに発言を訂正したことから、オレは相当嫌そうな顔をしていたんだと思う。いや、実際あの状態がオシドリなわけはないし(全国のオシドリとオシドリ夫婦に失礼すぎる)、そう思われたかったわけでもないけど、それにしても冗談が過ぎる。まあ別に今は友好的な関係を築けているので構わないのだけれど。
「怒った……?」
 腰に巻きつけられている腕に少しだけ力が加わったのがわかった。このちょっとした仕草が果たして榛名元希の計画的行動か否かは分からないが、こういうことをされて脳みそが半分とろけそうになっているあたり、オレは相当この人に甘いんだと思う。
「怒ってませんよ」
「じゃあなに夫婦って言われてたん?」
 困った。大地とのアホバッテリーのくだりだったからこそ振ることのできた話題だ。それが妙な方向に発展してしまって、多分今本当のことを言うと場の雰囲気というか空気というかを壊してしまうことは必至なわけで。この妙にむず痒い、あまやかともいえる雰囲気をいたく気に入っているわけでは決してないのだけれど。
「もういいですよ、『オシドリ夫婦』で」
 小声でそう応えたときの、元希さんの表情といったら。





2008/2/10『カモ目カモ科』