「キティちゃんじゃん」
誰もが知っている有名キャラクターの名前が、ちょっとそういうのとは無縁そうな阿部の口から発せられて花井は眉をひそめたが、視線は手元の問題集に落としたままだ。そういえば阿部は顔に似合わず、「プーさん」とか「アイちゃん」とか言う。別にそれが駄目というわけではないのだけれど、どこか違和感がある、なんて言ったら阿部は機嫌を損ねるだろうか。
丁度数式を解いている途中だったから無視しようと思ったのだけれど、語呂が気に入ったのか、もう一度、今度はオレに向けてではなく「キティちゃんじゃん」と笑いながら言った阿部が(顔を見てないから実際のところ不明だが)可愛らしかったので、仕方なく、手を止めて顔を上げた。どのみち解答には詰まっていた。
テストが近くなって、花井は阿部に一泊二食付きでの家庭教師を希望した。勿論、そういう下心がなかったわけではないが、それも込みで阿部は快諾した、とおもう。とりあえず、提出物を仕上げなければならないので問題集を解くわけだが、その間阿部はひどく暇だった。曰く、部屋いったらすぐに押し倒されると思ったから課題は何も持ってきていない、だそうで。花井にしてみれば嬉しいやら恥ずかしいやらで、お前はオレをなんだとおもってんだよ、と怒鳴りたいのを必死でこらえ、課題の処理に勤しんでいた。
一方、暇をもてあました阿部は部屋の持ち主のベッドを占領して、漫画を読んだりゲームをしたり、好き放題していたのだがどれにもすぐ飽きてしまって、今はいつの間に見つけたのか、花井の携帯電話を開いたり閉じたりしている。
「なー花井、このストラップ、御当地キティちゃんじゃん。お前こんなのつけてたっけ?」
「…双子の…修学旅行で京都方面いったときのお土産。付けてねーのバレて、昨日無理やり付けられたんだよ」
「あー、京都。そーいやオレも関西だったわ。シュンも、八橋買ってきてた気がする…」
「つか阿部、この問題教えて欲しいんだけど……」
「おー、どれ?」
言いながらも阿部が起き上がる気配はなく、今度はストラップについている小さな鈴を鳴らしている。何が楽しいのかわからないが、今日の阿部は機嫌がよかった。仰向けに寝転がってケータイ振り回してる姿は、たとえ振り回されているのが自分のものだとしても大変に可愛らしい。可愛らしいのだが、それよりも課題を手伝って欲しいわけで。
「あーべー、教えてってば」
「だってお前、田島たちと違ってやればできるじゃん。解説読んで、それでもわかんなかったら訊いて」
「………ったく、お前ウチに何しにきたんだよ」
「はあ?シにきたに決まってんだろ」
「しッ……、つか勝手にケータイ見るなよ…」
「あー?なに、見られて困るもんでもあんの?」
阿部の、さっきまで最高に良かった機嫌が最悪になったのが、花井にも目に見えてわかった。嫉妬とは少し違うようだが、愛されているが故のものであるような気はする。勿論、見られて困るようなものはないのでその旨を伝えると、徐々に平常まで機嫌を戻した阿部は、次の暇つぶしを見つけてすこし喜んだ。「じゃあチェックしてやる」って、ウザい彼女みたいなことをしだすから本当はやめてほしかったけれど、ここで口答えしてしまうとヤらせてくれなくなるだけでなく、下手すれば喧嘩になりかねないので好きなようにさせた。
「お前、メールボックスほとんど野球部だな…」
「用事あるときしかメールしねーからな。つか集中するから黙ってて」
「『西広西広水谷水谷水谷田島、飛鳥飛鳥田島飛鳥水谷栄口遥遥泉沖沖』」
「…………」
「『遥巣山巣山遥飛鳥オレオレ水谷オレきく江…』うわお前親も名前で登録してんの『オレ、三橋泉巣山…』」
「〜〜〜〜〜ッ、だーもー!邪魔すんな!」
「だって暇……」
「じゃあ教えてくれよ!したらすぐに終わるんだから!」
「それじゃー花井のためになんねーだろ、解説よんだのか?」
「…………」
「はーなーいー」
「…………」
「怒った…?」
「うるせー」
返事をしたことに安心したのか、阿部が、くふんと笑う。あれだ、眠いんだこいつ。眠さの限界を我慢してるとき、阿部はちょっとネジが緩む。こういうときはしたいようにさせておけば大丈夫だと、花井は再び、今度は冊子の後ろに載っている解答と解説を読もうと、意識を集中させた。はやく終えなければご褒美がなくなる。
「『遥田島巣山田島巣山巣山沖栄口栄口オレ…』なあ、花井ってオレのこと『阿部隆也』で登録してんのな」
「………赤外線してそのまんまだからだろ…てかマジで今黙ってくれ、ちょっとわかりそう……」
「オレのケータイ、お前のことなんて登録してるか教えてやろーか」
可愛いといえば可愛い。けどなんか、8割方ウザい。こいつがこんなにも絡んでくるのは珍しい。酔ってるみたいだ。よっぽど眠いのか。これはあれか、今日は寝かせてやれっていうお告げみたいなものか。ていうかお告げってこういうのだったか。
「はないー」
「………あーもー!なんだよ!?」
「あずさ」
「はあ?」
「オレ、あずさって登録してる」
瞬間、手に力が入ったのかなんなのか、そんなに長くなかったシャーシンが折れた。ノートにHBの粉が散る。だからなんだといわれると困るのだけれど、けれど花井は(まったく道理にかなっていないし、実際は違うのだろうが)飛び散った黒い粉にさえ欲情してしまって、乱暴な手つきでノートも問題集も閉じると、徐に、今にも眠ってしまいそうな阿部にまたがった。待っていたかのように、するりとした腕が首に回される。
『衝動』2007/12/05
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