あのひとはきっと、オレが腹を立てていることにすら気付いていない。
だってそうだ、あのときオレはなんでか忘れたけどあのひと絡みですっげーめちゃくちゃイライラしてて、そんなときにあのひとがなんか忘れたけど結構無神経なことを言いやがって、だからオレはぶち切れた。ホントいうと理由とか覚えていないけど、でもあのひとが全面的に悪かったのは覚えてる。だからそのあとも久々のふたりでの外出だったのにオレの機嫌は最悪で、もうほんと最悪だった。それなのにあのひとはオレが怒ってることにまるで気付きもしないでへらへら笑ってた。ムカつく。かなりムカつく。家に帰った後もイライラは収まらなかったのに『また行こうぜ』なんてメールを貰ったら(普通はそこで収まるんだろうけど)オレのイライラは倍増して一向に収まらないままで、だから今三橋が無意味にオレを恐れてて、そのせいでオレはまたムカムカする。
午前の練習が終わって昼飯。鞄を開けて唖然とした。直後にまたイライラし始める。なんでかそういう他人の気配には人一倍敏感な三橋が震えだして、異常にいち早く気付いた田島がオレを見た。その、三橋の怯え=オレみたいな考えはやめろ。オレの不快指数はまた上昇した。
「うっわー!阿部弁当忘れてるんじゃねー?」
視線を向けると田島も怯えたように、オレの弁当はあげないからな!…別に狙ってねーよ。唯、腹減らしたまま練習するのは無謀すぎるとは思う。なんとなく篠岡のほうに視線を向けると、ご飯まだ炊けてないの、って困ったように言われた。まだ何も言ってないのに、そんなに物欲しげな顔に見えたんだろうか。もう誰の顔も見てはいけないような気がして俯く。イライラに加えてほんの少し、切なさがこみ上げてきた。
「っお、オレ!…ウイ、ンナー、 あ、あげる よっ」
「オレも。玉子焼きならいいぜー」
「あ、じゃあ唐揚やるわ」
「じゃオレ、プチトマトを…」
「あ、ずりーぞ巣山!阿部、オレのプチトマトも食べて!」
三橋がウインナーを弁当の蓋に乗せてくれたのを筆頭に、泉や花井たちが一品ずつおかずを分けてくれた。巣山もありがとう。てゆーか水谷はお前ソレ唯の好き嫌いじゃねーか。そのあとも西広から鮭、沖から春巻き、栄口からはイカリングを貰って、三橋の弁当の蓋がオカズだらけになったのをみて多分皆同じことを考えたんだろう、視線を泳がす。白米がない。けどごはんを分けるのは流石にイヤだ。って感じの目だ。いや別にそこまでわがまま言うつもりないし、って言おうと思って視線を上げたら篠岡と確り目が合った。三橋並みにビクつかれて居心地が悪い。
「じゃ、じゃあ私はごはんを……」
「いや、さすがにソレは……」
「でも……」
気まずい。かなり気まずい。みんなの優しさで溶けかけていたオレの心が再び固まる。いや、別に篠岡のせいじゃないんだけど。この気まずい雰囲気を如何にして処理すべきか悩むその短い時間でオレの苛立ちは復活してしまった。落ち着けオレ、ここで不快感を表したらマジで友達なくすぞ。皆が固唾を呑む。どうするオレ、ってちょっと前のCMよろしく悩んでいると、
「すんませーん、阿部隆也いますかー?」
良く知っている声が聞こえて慌てて立ち上がる。
もしかしたら、いや、もしかしなくても救世主かもしれない。
「シュン!」
「おーす!」
弟はフェンスの向こうに居た。自転車の前籠には今朝の忘れ物が入っている。あの母親が気付くはずはない。気付いたとしても持ってきてくれる確率は五分だ。きっとこの出来た弟は自主的に来てくれたに違いない。ホントかなり久々に、弟という存在に心から感謝した。興味津々で近付いてくる部員たちに人当たりのいい笑顔で挨拶するシュンから弁当を受け取る。ありがとう。心の底からそう言うと、弟は照れたようにはにかんだ。可愛いなー。篠岡の小声が聞こえる。ホントに阿部の弟か?って水谷は後で絶対シめるから覚えとけ。
「あ、そーだ兄ちゃん」
「なに」
「家の前にモトキさん居たよ」
「……え」
「んで伝言なんだけど、『昨日は悪かった。マジごめん』って。また喧嘩したの?」
「…いや、……まあ、別に…」
またにこやかに挨拶して帰って行った弟を見送りながら皆、モトキって誰ー?の連呼。一人、栄口だけが微妙な顔をしていたけどそれも大して気にならなかった。皆でぞろぞろとベンチに戻った瞬間、オレの為に置かれたおかずがあっという間に元の持ち主の口に戻っていっても、篠岡が安堵のため息をついても、もう苛立ったりしなかった。
絶対許さないと思っていたさっきまでの自分が馬鹿らしく思えるほどに今のオレには余裕があって、もしあのひとがここまで考えていたんだとしたら、きっとオレはあのひとには一生勝てないままだ。
フェンス越しのメシア