広い部屋であったがその部屋にいる全員が無言だったため、クロスのため息は酷く大きく聞こえた。部屋の主であるところのティキ・ミックは片眉を上げて、けれど何も云わずに口元に笑みを浮かべただけだった。指先で煙草を軽くたたく。いかにも上等そうな灰皿に落ちる燃えかすをなんとなく眺めながら、クロスは自分が手にしている煙草を口元に運んだ。
「なにか不満かな、クロス統括」
「……強いていうとすれば、部下達が戦っている最中にのんびり遊覧飛行の計画を立てている自分に反吐が出そうってことくらいだ。そういう貴方はひどくご機嫌なようですね、社長」
「当たり前だろ。こんな楽しみなことはない!」
「…つい先日、別の”ノア”の話が上がってきたばかりだとしても?」
「関係ないな。俺は俺の思うようにしていくだけだ。それとも、お前はビビッてんのか?云っとくけど、あのとき俺の側についたことを今更後悔しても遅いぜ?」
「そんなことは言ってねーよ。俺が言ってるのは、もうひとつの勢力のことだ」
「関係ねーって。全部ぶっ壊すだけ。大丈夫だ、俺にはユウがいるから」
そう言って笑ったティキの目はどこか恍惚としていた。
「申し上げます、ヘリの準備が整いました」
「じゃ、行くか。お前がいうところの、遊覧飛行へ」
ビルの最上階から見下ろした街は既に黒く塗りつぶされていて、その闇の間に点々と光る無数のネオンが、これから消え行く命のようだ、と考えてから、クロスは自嘲した。自分はそういうキャラではない。
* * *
「12本の『G』細胞を視認。……現時刻をもって半径10キロメートル四方の総てを対象とし、オメガ発動。各自作戦行動を開始してください」
言い終わって、インカムをはずす。
目の前にはいくつもの試験管。薄暗く肌寒い部屋のなかに自分のため息が響いた。今更、唇が震える。けれどゆっくりと指を這わすと震えはすぐに収まった。すぐにこの施設も戦場になるだろう。詳しくは聞かされていないが、多分デイシャたちは直接施設を叩くように指示されていたはずだ。問題は、彼と、彼に率いられてやってくる私設軍が到着するまでの間をどのようにして過ごすか、だ。上からの直接命令は、オメガの発動まで。ティキ・ミックは私に直接指令をしたその口で、あとは好きにすればいい、と笑った。けれど、好きにするも何もない。とりあえず建物から出てみようと思い、けれど動くのはやめた。試験管に自分以外の影が映った。瞬間、銃を連射する音とモノが割れる音に耳がおかしくなりそうになる。動きにくく、暗闇で目立つ白衣を投げ捨てると一瞬で蜂の巣にされたのが見えた。一頻り銃弾が飛び、しばらくして灯りがつく。ステンレスの実験器具を鏡にして見た十数人の武装した人間のなかに、午後のひと時を楽しんだ女性をみとめる。
この場合、潜入捜査は失敗になるのだろうか。気づかれていたから失敗かな。でもするべきことはしたからぎりぎりで成功だろうか。そんなことを頭の片隅で考えながら、私は安堵していた。彼女は、私をリナリーと呼んでくれた彼女は私のことに気づいていた。よかった。本当によかった。これでなんの罪悪感もなく、
* * *
彼女の声を待っていたかのように、いっせいに射撃が始まる。ものの数分で、村の家々から人々が現れた。ひとつの小さな家には収まりきらないほどの人数があふれてきて、いつかの地下施設を思い出す。やはり、同じ組織で間違いなかったようだ。そして上のいうことを信じるならばこの村が組織の中枢を担っている。この村も施設も人間も、総てを抹消し、焼き払うことが今回の任務。それは分かっている。分かっているのだがやる気が出ない。その理由も分かっていた。これはあまりに似ている。似すぎていて、だから俺はやる気が出ないのだ。あの日以来、抑えようとしてもなかなかできずにいろいろ苦労した殺人衝動は、こんな日に限ってまだ眠りについたままで。
見た目に似合わないマシンガンを連射する女性を斬り、その次の、男だか女だかを斬りつけ、俺を気にかけた相棒が向かってくる。心配をかけさせてはいけない。足を引っ張ってはいけない。けれどどうにもやる気が出ない。この怠惰感はなんだろう。
「―――ッ!」
背後から斬りつけてきた初老の男の攻撃をかわし際、目が合う。理性を失ったかのようにギラついていたそれを見た瞬間、電源が入ったように、衝動が巻き起こった。
――― コロシタイ。
* * *
動きが、明らかに変わった。
人間というスペックの限界を見ているような感覚。ラビも、相手の男も、尋常ではなかった。彼らだけではない。いたるところで村人の動きが変わっていた。おびただしい数だ。なにがきっかけだったのかはわからないが、おそらく俺の予想は外れてはいない。自らを実験体にするなんてよっぽどのマッドサイエンティストに違いない、なんて思いながら、再び視線を相棒に戻すと。
死んで倒れた男をなおも殴りつけながら笑っている姿が目に入る。俺の視線に気づいて、こちらを見るその独眼は毒々しいほどの緑で。
そのときのユウの目はいつもみたいな真っ黒じゃなくて、どこまでも青い碧(みどり)だった。
砂を噛む