私は、そのひとことを躊躇なく口にするだろう。

その場所で私は臨時で雇われた学生だった。数週間働いても誰も私の存在を認知しないような大きな施設、大きな組織。けれどたったひとりだけ、私が雇われの学生であることを知っていて尚且つ、孤児院の出身で身寄りがないという、微妙に事実に基づいた偽の経歴を理解してくれている心優しい女性が居た。彼女は私をリナリーと呼んだけれど、私は彼女の名前を知らない。知る必要はなかった。野良猫に名前を付けてしまうとその瞬間から愛着が湧いてしまうアレと同じようなことなのかもしれない、などといったら怒られそうだけれどその感覚に良く似ている。彼女の名前は私にとって不要なものだった。名前だけではない。その優しさも気遣いも、彼女と私をつなぐ何もかもがそうだった。
その言葉を口にした後、私がまずしなければならないことは私という彼らの組織にとっての異物の存在を認知している彼女を抹殺することで、きっと私はなんの躊躇いもなく引き金を引くだろう。そんなことを考えながら私は彼女と、少し遅めのティータイムを過ごしている。










* * *










久しぶりに顔をあわせた相棒(というには最近一緒に行動することは少ないが)の表情は曇っているというよりもどこか虚ろで、しかも出逢った頃のいろんな意味で手の掛かりそうな奴に戻っていたから困り果てた。別にいつもの減らず口を期待していたわけではないが、目的地に移動する軍の車の中でもラビはずっと無言で、調子が狂う。
窓の外の夕日に染まった景色がビルから廃墟、畑に移り変わり、それが嫌でも”あの戦い”の記憶を鮮明に蘇らせる。気分が悪くなって窓を開けたが、入ってくる風は生ぬるく頬を撫でるだけだった。
手元の時計は20時を示している。待機命令がでてから既に2時間。作戦本部からの連絡を受けた同乗者が言うには、予定通りにコトが進んでいるのならあと3時間後にリナリーからの報告があがってくるそうだが、なんとなく信用できなかったのは、多分この場所が絶対的なアウェーだからだろう。本来のこのテの任務なら治安維持部門の一員としてマリたちと共に行動するのだが、今回は特別だった。いかに完全体のオリジナルといえど、暴走しないという保障はないということか、はたまたラビが毒気に当てられるのを防ぐためか、俺達は目標の研究施設からは離れた位置に配備されることになった。
既に軍とそれなりの関係を築いているらしいクロスの(多分、多少の嫌がらせも入っているだろう)計らいで、俺達が配備される位置のすぐ近くで待機する小隊の車に途中まで相乗りさせてもらうことになって現在に至るのだが、秘密主義の徹底している治安維持は唯でさえ評判が悪く信用がないうえに新しく設立されたばかりの私有軍はおそらく作戦の目的をはっきりとは知らされておらず、だからひとつの車のなかの、軍人数人と俺達ふたりの間に信頼関係などあるはずもなかった。此処までです、 という簡単なひとことと共に、田舎の農村の端に下ろされる。無常にも遠ざかっていく車を見送りながら俺は刀を担ぎなおした。

「いくぞ」

ついてくるのを見越して歩き出そうとして、失敗した。腕を引かれて、気がついたら抱きしめられるような格好になっていた。油断していたとはいえ、情けないことこの上ない。しかも更に情けないことに、俺はこいつにこんなふうにされると何故だか抵抗できないということを理解していた。久しぶりに感じたこいつの匂いで、絆されそうになる自分が憎らしい。
恥ずかしいとか情けないとか、それ以前に、俺にはこいつにそんな感情を持つ権利すらないというのに、こいつは古い友人を亡くして沈んでいるというのに、高鳴る鼓動が、忌々しい。

「ユウ」

その声は、震えていた。

「……なんだ」

少し距離をとって、けれど俺の肩に手はかけたまま、ラビは先程までの生気のない瞳を隠して、かわりに薄く涙を浮かべて、しかしなにも言わなかった。けれど言いたいことはだいたい伝わったから、それを踏まえたうえで俺はなにも気づかなかった振りをした。ずるい、 と自分でも思う。

指示された地点は、どう見ても畑のど真ん中で、何度も計画書を確かめたが、残念ながら俺達の待機場所は畑のど真ん中に相違なかった。村はこれから起こる出来事を予期しているかのように静まり返っていたが念のため、その場にしゃがみ込む。スーツ姿の野郎ふたりが畑の真ん中にしゃがみ込んでいるのは滑稽を通り越して変質的であったが、指令なのだから仕方ない。
先程の抱擁と、いつもと違う相棒の様子に戸惑って、なにを話せば良いのか分からずに俺は最初の任務のときとおなじように、ラビに目を向けずに呟いた。

「計画書には目を通したか」
「うん」

計画書の最後に他の印字とは異なる色で記されていたのは”Ω”の一文字。最後のもの。最終手段。すなわち、皆殺しを意味するそれはまれに目にする文字ではあったけれど、その場合”Ω”の後に範囲を示す暗号が印刷されていた。しかし今回は”Ω”のみ。つまり、対象は村人全員ということだ。勿論、ラビもそれを知っている。そしておそらく、自分の過去と結び付けているはずだ。けれどこいつは何も言わない。こちらが沈黙に耐えかねて口を開こうとするその瞬間に、さえぎられた。俺の背中の得物を指差して、ラビは力なく笑う。

「それ」
「……なんだ?」
「刀。初めて見るから…なんで今日刀?」
「デイシャが言ってただろ、俺は刀も使えんだよ」
「ああ……。れ、もしかしてじゃあ、あのとき俺が『見せて』っつったから?」
「自惚れんなハゲ」
「ひでー。はげてねーし!あーでもフクザツさー」
「なにがだ」
「ユウの刀さばきも見てみたいけど、俺、ユウがリボルバー使ってんの見るの好きなんさー」

そういって笑う表情は、まだどこか無理をしているようだった。

「てめェは…!任務中はてめェのことに集中しろっていつもいってんだろーが!」
「してるって。てめーの性欲に集中してるー」
「ッの、マジいつか殺す…てか銃使ってるのみて性欲とかありえねーだろ。どんな変態だよ」
「ひとのせーへきにまで口出さないでください先輩」
「こんなときだけ先輩呼びすんな!…………」
「どした?え、もしかして怒ったん?」
「決めてるんだ」
「へ?」
「こういうときは、あの銃は使わないって決めてる」
「………”あの人”との約束?」
「なんでお前……」
「聞いた」
「誰に」
「秘密」
「チッ………約束なんてしてねーよ」

あの人との約束は最初で最後の、

「ユウ」

はっとするまえに両手で頬を挟まれ、顔を向け合うかたちにされる。
ラビの独眼に映りこんだ俺の顔の情けなさといったら、表現できないほどだった。

「そんな顔してっと、ちゅーしたくなるさ」
「ざけんな!離せ!任務中だぞ!」

あの人との約束は最初で最後、あの瞬間のたった一度だけ。

「わかってるさー…あと2時間ちょいじゃユウに無理させることになるしねー?」
「……てめーの”ちゅー”はドコマデだよ」

呆れて思わずでたため息は、驚くほど軽かった。



―――― 最後だからよく聞きなさいユウ。
望まれない命なんてない。望まれない命なんてないんだよ、ユウ。だから君は強く生きなさい。どんなことがあっても強く生きると、今此処で、私と約束してくれないか




イヤホンから、よく知る少女の声が聞こえた。
予定より、随分早い。



水浸しの世界