ほとんどが白衣か作業服の集団のなかで、少数しかいない黒いスーツはよく目立った。故に彼らは、社内を少し歩くだけで視線を集める。軽蔑したようなものや畏怖をこめられたもの、時には憎悪を向けられることもしばしばだが、それに慣れている彼らは実はそれを楽しんでいる節もあるからたいした問題ではないのだけれど。
同じ黒、けれどスーツとは似ても似つかない格好で、彼女は社内を闊歩していた。裾をレースで縁取ったマイクロミニのワンピースとニーソックス、ピンヒールは嫌でも目立つ。その上容姿端麗、しかも今話題の人であるのだから、すれ違う人々は皆彼女を見た。勿論、治安維持部門所属の彼も、確り、それはもう上から下まで確りと彼女を見た。
バスン、と軽い衝撃が彼の後頭部を襲う。頭に振り下ろされたファイルを受け取ると、彼はへらへら笑った。その姿に鼻を鳴らしたのは言うまでもなく彼の相棒で。
「見すぎだ、バカ」
「えーだってすっげーじゃん?あのカラダ!もろストライク!」
「あほらし……」
「えー!?ユウ、っと……失礼、先輩はあーゆーのタイプじゃないの?」
「先輩って言い直すくらいなら敬語も使え……」
「っす!で、どうなんさ?」
「……香水がきつい」
「あー、苦手だもんねー。先輩、クロスのんも無理だったさ」
「ああ」
話しながらエレベーターに乗り込む。
向かう先は78階。直通ではないのでかなりの時間がかかる。その間、することもないので、ラビは先ほどの女性の話を続けた。
「さっきのがエリアーデさんねぇ……生で見るのは初めてだったさ」
「そうなのか?」
「うん。かなり話題になった。『同期にすっげー可愛くて強い女がいる』って」
「同期なのか?」
「うん。だからすげー出世。まあ俺たちの代って結構優秀なのが多くてさ、俺のダチも出世して鬼教官になってっし。ああ、でもまあ、あのエリアーデって娘に限っては変な噂もあるみたいだけど……なんかさ、あの娘に惚れ込んだエライ男がいて、そいつがホラ、例のアレイスター・クロウリーでさ、アイツがいろいろ操作して今回も一緒に来た、みたいな?」
「……教官」
「え?そこに引っかかるわけ?なんで?」
「……いや、お前なんかにも”ダチ”がいるんだな、と思って」
「ひでーさ、それ!」
フロアへ到着し、ドアが開いた瞬間、ラビはデイシャに捕らえられた。
そのまま治安維持部門の仮眠室へ連行されながら、報告書を相棒へ放った。
「はぁ!?今日はお前が出すんじゃねーのかよ!」
「おねがいユウちゃん!俺先輩に拉致されるから!」
「意味わかんねェ!つか俺も先輩だ!」
「悪い神田、今度埋め合わせはちゃんとするじゃん!」
目を吊り上げた神田が諦めたように去っていくと、デイシャは拘束を解いた。まあ座れよ、と自身も座る簡易ベッドに後輩を誘う。
「……悪いデイシャ、俺そーゆー趣味はねーんさ」
「あぁ?ちげーじゃん!ってかお前にだけはそういうこと言われたくなかったじゃん!」
「ちょー、それって差別さ!?…てゆーか、何の用さ?」
「ああ、…お前、見たんだろ?エリアーデ。どんな感じ?」
「美人さ、すげー」
「そんだけ?もっとなんかねーの?だってそいつが副指令なんじゃん?」
「そんな、すれ違っただけでわからんって……」
「そっかー」
「……そんだけ?」
「そんだけ」
「………」
無責任な相棒への苛立ちが表面に出てしまった。少々乱暴にデスクに置かれたファイルを手に取りながら、しかしコムイはにこやかだ。今日も今日とて、タバコのにおいが染み付いているだろう指先でぺらぺらと報告書をめくり、ひとこと。
「おつかれさま、あがっていいよ」
しかし神田は動かなかった。一向に立ち去る気配のない、もの言いたげな視線に負けて、コムイはひそかに苦笑した。談話室で良いかな、と尋ねると、今すぐここで、と返される。ラビあたりが聞けば意味を履き違えそうな言葉に、今度こそコムイは神田にもわかるほどに苦笑した。
「なにかな」
「『エリアーデ』を見ました。彼女について訊きたいことがあります」
「うん、なに」
「まだ正式に公表されてはいませんが、彼女が副指令に着任することは決定しています」
「あー、そうなの。じゃあクロウリー氏が指令になるんだね。彼も運が悪い……指令なんて肩書き貰っても、私設軍。それも一企業の、なんだから…左遷と一緒だろうにねぇ…知ってる?ウチのモノになったら、正規軍とは何の関係もなくなるんだって。表向きはウチの社員ってことになるらしよ…田舎のお袋にあわせる顔がないよねぇ?」
「……『エリアーデ』のはなしです」
「ああごめん、なんだっけ?」
「率直に聞きます。彼女は……『G』ですか」
「……どうしてそう思うの?においとか、するの?」
冗談めかしたつもりだが、コムイのひとことで神田の表情は変わった。表情というか、顔色だ。ひどく青ざめている。硬く握り締めている拳は、わずかに震えていた。本当に、においなどするのだろうか。尋ねてみたかったが、下手に刺激するのはまずい、と思い直す。
「さあ…そういうのは君のほうが詳しいんじゃないの?社長やクロスに可愛がられてるでしょ」
「……まだ根に持ってるのか…」
「僕だけじゃないよ?リナリーのキレ方は異常だし…冗談を抜きにしても、平社員や製品開発のほうはともかく、ソカロやナインも、みんな怒ってる。事後承諾なんてとんでもないよ。そういうことしていいほど軽い問題じゃない。しかも保有の話、メディアには公表しないんでしょ?ばれたときたたかれるよ」
「バレないだろうし、そういうときは圧力かけるだろ…」
「そういう問題じゃない。……今回のことが引き金になるんじゃないか心配なんだよ」
「ならない」
「……そうだね」
今日の神田は表情をよくかえる。先ほどとは明らかに質の違う顔を向けられて、コムイは正直困ってしまった。まるで泣き出す手前の子ども。この子がまだ幼かったころ、あのひとが言っていた言葉がよみがえる。確か、確か、ああそうだ、確かこの子がリナリーを泣かせてしまって、それに対して僕が大人気なく取り乱してしまったとき、あのひとは、なんで怒られているのかもわからないこの子を抱き上げて。
『コムイ、ユウを泣かせてはいけないよ』
泣いてなんていないのに、そういってこの子の黒髪を撫でてやっていた。今思うと、親ばかの典型だ。けれど、どうしてかそれがうれしくて、だからきっと僕は今でもこの子に甘い。だからこの子を泣かせないようにしているつもりだ。それは勝手すぎるエゴなうえに、この子はきっと誰にも気づかれないように泣いているのだろうけれど。
「怒った?」
「別に」
「……泣かないでね」
「はぁ?泣いてねーよ!」
「うん、じゃあお詫びに教えてあげるよ。彼女は『G』じゃない。確かに”ノア”が関わってはいるけれど、うちの会社の…『G』とは何の関係もない、軍の技術のモノだ。スペックも格段に落ちる。…ドーピング程度のものだよ」
「………そうか…わかった。…へんなこと聞いて悪かったな」
そのまま退出しようとした背中は、けれどすぐにまたデスク脇まで戻ってきた。先ほどとはやはり違う表情で、先ほどよりも声を落として。
「なあ、…話蒸し返すみたいで悪いんだが…、例の…情報をリークしたっつって総務にいるやつって…」
コムイの返答と重なるように仮眠室から爆笑する声が聞こえてきて、
そしてまた神田の表情は変わった。
せめて祈るよ