「ひっ…ッまってくれ!本当は、ッ裏切るつもりなんかなかったんだ…!た、頼まれたんだ!嘘じゃない!だからお願いだ、こっ、殺さないでくれ命だけはお願いだ!妻が…!娘が…!」

怯えて震える男の眉間に照準を合わせ、トリガーをひく。鈍い音と共にひとがひとり事切れ、流れ出した血が彼の白衣に小さな染みを作った。





「……ッ!?」

目のまえには白い生地があったが、血は散っていない。徐々に覚醒する思考がやがて目の前の布をシーツだと認識し、意識が混濁していたことに気付く。夢だとは解っていても恐る恐る額や頬に手を当てたが既に傷は癒えていた。嫌な汗を洗い流そうとバスルームのほうへ視線を向けるが、そこにあるべき空間はなかった。明らかに間取りが違う。再び混乱しかけたまま自分の身体をみると何も纏っていなくて、そうしてやっと、此処が誰の部屋か理解した。と同時に、この部屋の主が不在だということに気付く。とりあえず服を着ようと立ち上がろうとしたときに感じた腰の鈍痛に舌打ちをすると、ドアが開く音と一緒に能天気な声が掛けられた。

「悪ぃ…、シャワー浴びに行ってたんさ…。てかゴメン、腰ダイジョブ?」

ああ、この新人の部屋にシャワールームは付いていないんだな、とか腰の心配するくらいなら最初から加減しやがれ、とか思ったがそれよりなにより、言い知れぬ不安が広がった。まだ覚醒しきっていない脳が目の前の男の格好に警報をならしている。ラビは服を着込んでいた。いつもは言われてからでしかしないネクタイもきっちり締めている。先ほどとは微妙に質の違う汗が噴出した。あいつは服を着ている。対して俺はまだ何も着て―――。あ?…あ。今。今、何時だ!?
慌てて枕もとのデジタル時計を振り返ると俺は急いでベッドから飛び出した。「やーん、朝からサービスショットー」とかほざいている後輩は完璧にシカトして服を身に着け始める。ああ本当、最後寝る前にシャワー浴びてよかった俺。朝早いからって怠惰感も鈍痛も我慢して後始末しててよかった俺。っていうか。

「てめェ糞兎!なんで起こさなかった!?」
「え、だって昨日無理させ――――」
「無理は毎回だろう馬鹿!つーか今朝は早いって3日前から言ってただろうが!この糞…マジでお前、…あー、殺してェ」

若干申し訳なさそうに、差し出されたネクタイを乱暴な仕草で受け取った。

「あー…せっかくオレが新婚さんよろしくネクタイしてやろうと思ってたのにー…」
「…ッ!マジで頼むから、頭の湧いた発言は一日一回に留めろ!」










*  *  *











カチャリ、とソーサーにカップを戻して、ティキ・ミックは優雅に微笑んだ。
無駄に長い脚を組みかえる様子は最早社長というより貴族である。向かいあって座る女性は静かにレモンティーを口に運んだ。モーニングというには遅く、かといって昼食には早すぎる時間帯。会社から徒歩数分の喫茶店の客はふたり以外誰も居なかった。もともとあまり流行ってはいない店なのだが、此処のコーヒーは実は絶品なのだ、と彼は自慢げに言った。だから君もコーヒーにすればよかったのに、と。
しかし女性にしてみればコーヒーという飲み物は深夜、終わらせなければならない仕事を終えるために飲む黒い液体であり、たとえ今が深夜とは程遠い時間帯で、それに砂糖やミルクを入れることが可能でも、出来る限り避けたい飲み物であった。条件反射というかなんというか、コーヒーをみるだけでげんなりしてしまう。
無言のままの女性を穏やかな目でみつめながらティキは無駄に腰にくる声で「それで?」と先を促した。

「中途半端な時間のデートに誘ってくれたのは光栄だけど、リー統括。本題は?」

『統括』と言われたことに女性は若干の腹立たしさを覚えた。今の自分は科学開発部の一社員である。胸の名札にもそう示されている。それにそもそも、『統括』などという役職は本来存在しない。彼が指すその立場の正式名称は『医療部門総合部長』である。したがって『リー部長』が正解だ。何処の誰が言い出したのか今では自部門の社員すら自分を統括と呼ぶことに不満をもっているが、要は部長と呼ばれたいだけなのだけれど理解しているので特に今、文句をつけることはない。彼女はカップを下ろした。

「…わかっているんでしょう?」

わざとらしく肩をすくめる男に内心舌打ちする。やはり彼女も、社長が余り好きではなかった。

「軍保有の話は私達のところまで下りてきていません。ソカロもナインも…兄も聞いていなかったって。事後承諾で済まされる問題じゃないでしょ?貴方いったい何をするつもりなの?会社の経営は上手くいっているし、……兵器も各国に売りさばいているんでしょう。軍の、それも精鋭とよばれる人たちを引き抜いて、一体これ以上なにを手に入れたいの…?」
「……世界、かな」

本気とも冗談ともつかない笑顔で返される。馬鹿な話だ。市場をほぼ独占しているとはいえ、一企業が世界を手にすることなどありえない。あってはいけない。

「……正気ですか。」
「酷ぇなぁ。…で?話はそれだけ?」
「まだある。神田をどうしたいの?あんなことを続けさせていたらそのうち壊れてしまう!」
「あんなことって、この間のクロスたちと行かせたときのことか?」
「まだ何も起きていないけど、起きないとは限らない。起きてからでは手遅れなのよ。あと…ラビのことも…ロードに調査させたって噂が…」
「…吸っていい?」

返事を待たず、ティキは煙草に火をつけた。煙を吐くと、深く座りなおす。

「どーゆールートで回ってきたか知らねェケド、その噂はガセ。何故なら『執行』は3日後の予定だから。ってゆーかそれになんか問題ある?俺とクロスと、一部の人間しか知らなかった……お前達でさえ知らなかった軍の情報を、なんであの下っ端が知ってるのか気になるだろ?あいつは独自のソースを持ってる。それを報告してもらうだけ。別に痛いことはしないから、リナリーが気する必要はない。…あ。気にするといえば!気になってることがあるんですが!」

無駄にキラキラした目を向けられてリナリーはどうしようもなく緊張した。冷め切った紅茶を再び口に運ぶが、レモンの甘酸っぱい香りは気を静めるには薄すぎた。指先が震える。恐怖からじゃない。理由のわからない震えは、ティキの言葉で怒りのそれへ変わった。

「医療部門統括としてのリナリー・リーはさぁ、あの眼帯クンのカルテに『02』ってかいてるって噂マジ?でもまあ、惜しいよなー。眼帯が女だったら交配で2世の『03』を造ることも―――」
「ッいいかげんにして!」

にまり、と笑うティキの横っ面を思いっきりはたいてやりたかったが、寸前で思いとどまるだけの理性を、彼女は持ち合わせていた。落ち着け。惑わされるな。怒ってはいけない。だってこのひとは唯私の反応を愉しむためだけに。

「……社長、たしかに“あの日”、私達は貴方についていくことを決めた。でもあのとき沢山の人を裏切ってまで貴方のために働いたのは、大きな戦争をするためじゃないわ。いつまでも子供だと思って馬鹿にしてると痛い目見ますよ」

それだけ言うと彼女は店を後にした。残された飲みかけの紅茶と伝票に目を落とし、ティキはヴァニラの香りのため息を吐いた。別に奢らされることに敗北感など感じてはいないけれど。

「…ちゃっかりしてるなぁ」



左肩のぬくもり