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自室の前で膝を抱えて眠っている少女の肩は白い包帯で覆われ、そのうえ右腕を吊っていたものだから神田は、失礼ではあったけれど驚いてしまった。彼女が怪我をしたところなど、もう数年見ていない。神田は少女を起こすことをためらった。白い頬を、涙の跡がはしっていた。
彼女が医療部門統括という地位に居るのも科学開発部の一員であるのも、その天才的な頭脳によるものだが、治安維持に所属するのはその戦闘能力がかわれたからというわけではない。勿論、治安維持に所属するにあたって戦闘能力はもっとも考慮されるべき点ではある。しかし彼女の場合、最優先で考慮されたのはその冷徹な精神だった。目の前でなにが起ころうと誰より平常を保つ、強靭で冷たい心を、彼女は持っていた。別人だと思いたくなるような冷たい眼を、神田も何度か見ている。仲間が死んでも、子供を殺めることになっても「任務だから」の一言だけで顔色一つ変えぬまま脚を振り下ろす。飛散するモノを全身に浴びても、泣きもしなければ笑いもしない。彼女は神田同様、殺戮のためだけに組織が創りあげた兵器だった。
その彼女が、泣いている。
スーマン・ダークという男を神田は知らなかったが、リナリーはどうだったのだろう。科学開発部に居たというからやはり互いに知り合っていたのだろうか。一度はためらったけれど、こんなところで眠っては風邪を引いてしまうのでやはり神田は彼女を揺り起こした。目覚め際、夢うつつの彼女が吐いた弱音は聞かなかったことにした。長い睫が振るえ、漆黒の瞳がのぞく。
「こんなところで寝るな。風邪でも引いたらコトだぞ」
「………あ、……やだ私、眠ってた?」
「疲れてるんだろ」
右肩を指差すと彼女は困ったように笑った。しくじっちゃった。その笑顔がなにより痛々しく、その笑顔のために自分の兄が人しれず泣くことを、きっと彼女は知っている。それでも、組織のため、自分達の命のために生きる健気で愚かな兄妹がどうしようもなく不憫だった。
「………寒いだろ、なか入るか?」
「ううん、平気。これ渡そうと思ってただけだから。上の許可は取ってるから安心して。本当は午前中に渡すつもりだったんだけど、ちょっと用事があって……お昼は神田、居なかったし」
「ああ、悪い」
クリップで留められただけのレポート用紙の束の表には明朝体で[解析結果]とだけ打たれてあった。組織の核に障る最重要機密をこんな簡単な紙に載せていいのか、と思ったがそれを口にする前にリナリーが喋った。ほんとはもっと確りしたつくりにしたかったんだけど、邪魔が入っちゃって。恐らく昨日の戦闘のことを言っているのだろうが、彼女の笑顔はもう元の華やかなものに戻っていた。唯、じゃあね、と去っていく後姿だけがひどく哀愁を帯びていた。
『体内に注入されたナノマシンが脳を支配し、運動能力を異常なまでに高める。ナノマシンが戦闘指令を出す間、思考力は極端に欠如し、凶暴化する。筋肉を酷使するため、身体への負担が多く、被験者の寿命は平均の2分の1程度。またマシンは感染、寄生させることも可能で、感染例として傷口からの進入が確認されている。生殖能力の有無は未確認のため、遺伝については不明。コピー間での共鳴は確認されているが、オリジナルとの呼応確立は低い。』
要するに、出来が悪いというわけだ。『オリジナルとの呼応』組織がそれを確認するために追加捜査をさせたのなら、コピーと称された出来損ない同士の反応まで見れて一石二鳥だったわけだ。オリジナルとコピーの呼応を全否定していないのはあの時神田が嘔吐したからなのだろうけれど。
「それは唯のトラウマだっつーの」
自嘲気味に笑って、もう一度活字に目をやる。『2分の1程度』という言葉が気に障った。気に掛かったのではなく、障ったのだ。半永久的に生きなければならないオリジナルとのこの優劣のひどさときたら、もう笑うしかない。コピーを羨ましくおもう。けれど同時に、コピーとなってしまった奴が痛ましくてならない。
神田はベッドに背を預けた。
柔らかい感触が、まどろみのなかに彼を誘ったけれど、決して心地よくは無い。
自分というモノが存在しなければ、あいつはこんな醜い運命を背負わずに済んだ。何も知らず、なにも知らされず、あの長閑な田舎でのんびり畑でも耕して、どこかのだれかを嫁にして、子供と孫と暮らして、年老いて死ねただろう。殺しに携わることもなく、酷い痛みに蝕まれることもない、平穏で、退屈で、最高の人生を送れただろう。
『ユウ、あいつはやめとけよ』
――――― ああ
平和な夕日であの綺麗な色の髪を染め上げて。
『そんなの唯のエゴだぜ』
――――― 解ってる
馬鹿みたいな笑顔のままで。
『表情、柔らかくなったよ』
――――― 知ってる
能天気なことばっかりいって。
『今度観に行きましょうよ』
――――― 。
一生、平和に―――。
『望まれない命なんて無いのだよ、ユウ』
「―――――ッ、……」
なにもかも、俺のせいだ。
でも―――――
部屋のドアがノックされる音で、現実に引き戻される。
冷や汗が背中を伝った気がした。いつの間にか握り締めていた最高機密は皺だらけになっていた。それをベッド脇のチェストにしまって、ベッドを降りる。ドアまで歩く時間が、ひどく長く感じられた。
でももし、貴方が言ったあの言葉を信じてもいいのなら、教えてください。俺はなにをすればいいですか。なにをすれば赦されますか。なにをすれば、生きる権利を得られるのですか。お願いです。お願いですから、教えてください。
教えてください。
眠り熱