床から天井まである、おそらくこの社で一番大きな窓から下界を眺め、こちらに背を向けている男から出来るだけ意識をそらさぬようにしながら、神田は静かにコーヒーを喉に送った。流石、というべきだろうか。コーヒーについててんで素人な神田にさえ良い豆を使っているとわかる。

香ばしい香りが3人だけの空間に満ちていた。
地上から遠く離れた静かな部屋で聞くことが出来るのはアンティークの置時計が時を刻む音と、もう十数分窓の外を眺めたきり口を開こうとしない男の指示をひたすらに待つ秘書と思わしき男の緊迫した息遣いだけだ。神田は冷や汗を垂らしている秘書を不憫に思いながらも度々送って寄こされる、なんとかしてくれという切望の眼差しは完璧に無視し続けた。正直なところ、出来る限り無関係であり続けたいのだ。

「で?」

窓に視線を向けたままだが、男がやっと声を発したので神田は密に安堵し、秘書は背筋を正した。ヒッと引きつった声が僅かに漏れたことには気付かないふりをしてやろう。

「そのリナ嬢とやった男の調べはついたのか?」
「あ……はい。スーマン・ダーク。入社当時は製品開発部所属でしたがソカロ統括の要望により1年で科学開発部に異動、その後『G』の量産実験に携わっていましたが4年後に逃亡、以来行方、生死は不明でした」

原稿を読むようなすらすらとした報告を受け、やはり背を向けたままの男は声を少しだけ低くする。遊んでいるのだと神田には理解できた。

「何で逃亡できるワケ?普通連れ戻すか殺すか、だろ?」

あからさまにたじろいだことから、秘書がその問いに対する答えを持ち合わせていないことがわかる。

「あ、えー……、その……」

背を向けているので表情は窺えないが、極度の挙動不振に陥っている秘書の姿を男が楽しんでいることは明らかで。遂に顔色を悪くしだした秘書をいよいよ不憫に思った神田は助け舟を出してやった。

「当時は確か終戦直前。戦闘が最も激化していた頃ですから、恐らく治安維持もたった一人の逃亡者を気にかける余裕は無かったのではないでしょうか」

大きく頷いて友好的な視線と微笑みを投げかけてきた秘書をまた完璧に無視しながら自分は男の背に目をやる。馴れ合うつもりは毛頭ないのだ。

「ふーん、なるほどなあ。で、死因は?爆発したって噂だけど?」
「は。まだ捜査段階ではありますが、現場の状況と遺体の状態、居合わせたリー統括の証言から、おそらく、奥歯に仕込んだ爆発物を強く噛み砕くことに因っての自害だと……にわかには信じがたい話ですが、開発部門所属でしたので……」
「不可能とは言い切れない、か。…………すげーな、映画みたいだ。なあ?」

やっとこちらに向き直り薄い笑みを湛えた男はまっすぐに神田を見据えた。

「そうですね」

喉まで競り上がった得体の知れない不快感を押し戻そうと、神田はまた一口、コーヒーを飲む。すっかり温くなってしまったそれは逆に負の感情を煽るだけだった。無意識に眉を顰めた神田に気がついた男は、自分の部下にコーヒーを入れ替えるよう命じた。断る間もなく、目の前からカップが下げられる。逃げるように部屋から出て行った秘書を目で追いながら、男は上辺だけで謝罪した。よくもこんな愚行を、と思わないわけは無かったが、神田は平静を装った。ここで憤慨してはまるで意味が無い。

「気の利かねェ奴で悪いな」
「……いえ」

男は満足そうに笑うと、デスクにではなく神田の正面のソファに腰を下ろした。世辞にも暖かいなどとは言えない眼差しを受け、神田は身を硬くする。秘書を追い出したのは恐らくふたりきりになりたかったからで、その理由はきっと『G』に関係するはずだ。なにを尋ねられてもうまくかわせ、とは此処へ来る前にクロス・マリアンから仰せつかった直々の命だが、言われなくともそうするつもりだった。唯、賢くはない自分であるから、知らないうちに、口のうまいこの男に呑まれないかが気がかりではあった。

「気付いてるんだろ?」
「………は?」
「今日お前が此処に呼ばれた理由。気付いてるだろ?」
「……申し訳ございません、仰っている意味がよく――――――」
「ユウ。気付いてるんだろ?」

まっすぐ煌く眼光に射抜かれてその瞬間、神田は瞬きすら忘れた。



腕に三日月を刻む