相手が引き金を引くより、自分が意識するより早く、リナリーは銃を持った右手を蹴り上げていた。低くうめく声の後に、銃が落ちる音。すかさず、今度はナイフで切りかかってきた男をひらりとかわし、その流れで回し蹴り。足技には自信があったのだが、ぎりぎりでかわされた。面白くない。歯がゆい。体勢を立て直しているうちに男は銃を拾い上げ、ろくに狙いも定めず撃ってきた。弾に余裕があるのか、自棄になっているのか。

ラボに銃声と何かが割れる音が何度も反響する。
破壊される備品を視界の端に入れながら、リナリーはこの状況を密に、無意識のうちに楽しんでいた。彼女の推測が正しければ、男は戦闘に不慣れだ。そしてこちらは戦闘用に訓練されたプロ。能力の差は歴然としている。当然、男が勝つ確立は皆無だ。普段の彼女ならばそう言って戦闘意識を殺ぐのだけれど、今回ばかりはそうはいかない。知られてはいけないことを知られている。ならば殺すしかない。探せば他に道は幾らでもあるのだろうが、残念なことに、組織で英才教育を受けて育った彼女は、"殺す" 以外の解決方法を知らなかった。

照準が自分に合わされ、トリガーが引かれる寸前まで動かない。コンマ数秒の反射神経で足場を蹴り、舞い上がる。相手もプロならば空中は狙撃には絶好のチャンスだったが、勿論、男は慌てて目で追うだけだ。次の足場にひらりと着地し、また照準が合わされるのを待つ。彼女はやはり楽しんでいた。彼女が舞い踊る間、ラボは彼女の舞台になった。あらゆる備品が彼女の足場になり、彼女は、時には壁さえも足場にして舞う。放たれる銃弾。背後で何かが壊れる音。その度の男の舌打ち。硝煙の匂い。弾を込め直す際の男の焦った呟きさえ、彼女を愉快にさせる。最高だ、とそう思う。

けれど、デスクから書棚に飛び移る瞬間、何気なく目にしたガラスの破片に映った自分の顔を見てしまった。笑っている。嬉しそうに、ひどく愉しそうに笑っているけれど。でも、こういう自分の顔は好きじゃない。

興が殺がれた。

そう思った瞬間には足を踏み外していて。無様にこけることだけは何とか堪えたけれど足をくじいてしまった。体勢を立て直す間は今度はなく、男が銃口を向ける。放たれた銃弾が何処にいったのかは解らない。でも瞬間、右肩に激痛が走ったから右肩に当たったのだろう。

「あんな顔はイヤだな……」

彼女は独りごちると、男に向き直った。
足が痛い。肩はもっと、焼けるように痛い。もう遊んではいられないと、彼女のなかの彼女が告げた。わかってる。もう終わりにしよう。
リナリーに突きつけた銃をきつく握ったままガタガタ震えている男にはわからなかっただろうが、彼女は一瞬で男との距離を詰めると、そのまま自分の額ほどの高さはある男の肩に手をかけ、そのままその手を支点にしてひらりと、なんとも軽い動作で男の背後へ舞い降りたのだ。

目の前にリナリーが居ないと理解した次の瞬間には、男は背後に回った彼女の渾身の一撃を受け、冷たい床に転がっていた。見上げた彼女の顔に先ほどまでの妖艶な微笑みはなく、かわりに顔いっぱいに広がるのは悲哀の表情。

「どうして……スーマン……」

最後に会ったのが何時だか思い出せないが、暫く見ない間に彼女はぐんと美しい女性に成長していた。しかし、人殺しをするには優しすぎる性格は昔と全く変わっていない。自分は愚かなことをした、と一瞬だけ、男は思った。しかし、もう遅いことは解っている。

「リナリー……頼む、『G』をあの資料を!……君達は間違っているんだ。あの人は気付いたというのに、何故君達がそれに気付かない?あの実験は悪魔だ!あんな資料は廃棄しなければならないんだ!あんなものが存在するから……今は平和でも、いづれまた大きな戦争になる!必ずなる!もう戦争は嫌だ!リナリー!頼むから渡してくれ……ッ!」

男の必死の言葉に、リナリーは頷かない。
悲しく潤むその瞳に、冷たいものが宿った。

「あなたはそれを誰に言われたの?」

彼女自身も嫌になるほど、ひどく冷たい声だった。

「リナリー……」
「誰に持って来いと言われたの?スーマン、あなたの言っていることは多分、間違いじゃない。……でもあなたのやろうとしていることは間違いだよ!あなたは利用されてる!あの資料をそいつらに渡しても、そいつらが悪用するに決まってる!それこそまた戦争になるよ!?」

子供のようだ、と思ってすぐ、彼女はまだ子供なのだと、男は理解した。
だれより平和を願う心優しい少女は、きっと組織に毒されているのだ。自分は間違っているのではない。彼女も間違っていない。彼女は知らないだけ。ならば誰が彼女に知らせる?

「リナリー、……君は……」
「私は間違ってない!スーマン!あなたは此処で私が……私が…ッ……」
「君と戦って勝てると思うほど、私は愚かじゃないよ。」
「なら……ッ!?やめて!」

男が自らのこめかみに当てた銃を、リナリーは慌てて叩き落とした。もう涙で顔がどろどろだ。傷も酷いのだろう、肩で息をしている。公私に挟まれ、どうすればいいのか解らずに唯混乱している。可哀相な子だ。組織に利用され、組織に忠誠を誓っている。哀れで、醜い、悲惨な。

「じっ…『G』は……02の実験は失敗したんだよ……アレは完璧なものじゃない…組織は量産なんかに手をつけたりしない!クロスさんが見張ってるの!だから大丈夫なの!だからっ!」
「そうか……、ありがとう。リナリー……すまない。」

男の次の行動が解らないほど、リナリーは綺麗ではなかった。
まだこんなにも悲しい笑顔を向けるのだからきっと、どこかに方法を隠し持っているのだ。

「なんで…?」
「さあ……君がおとなになれば、解る日が来るかもしれないな」

言って彼は柔らかく微笑んだ。
研究に忙しい兄を待つ間、くだらない遊びの相手を兄が戻ってくるまでずっと、嫌な顔一つせずにしてくれた男の、あの頃のままの、優しくて暖かい笑顔だった。さようならと、そう言われた気がした。

「……スッ――――!!」

何も聞こえなかった。
唯、目を焼くような閃光が眩しすぎただけ。
次の瞬間には、さっきまで微笑んでいた人の肉片がラボに飛散していて、血なのか何なのかわからない液体が、自分にもかかっていて。酷いと思う。また、おいてけぼりだ。

「わかんないよ……スーマン……」










いつか信じさせてやろう