必要な書類をまとめてクリップで止めて、一息つく。
自分以外誰も居ないラボには、24時間作動している医療部門のメインコンピュータの音しか聞こえない。今は電源の落とされたデスクトップの横に置いているデジタル時計は午前3時丁度を表示していて、このまま朝を迎えれば連続4日の徹夜となるのだが、あまり気にならなかった。疲れていないといえば、それは勿論嘘になるけれど、睡魔が襲ってくるということは無い。すっかり冷めてしまったコーヒーを一口だけ飲み、この後のことを考える。昨日今日のうちにしなければならないことは終えた。このまま部屋に帰っても、どうせ数時間後には戻ってこなければならないのだし。さてどうしたものか。

ふう、ともう一度深く息を吐いた。
心なしか、先程より冷却ファンの音が大きく聞こえる気がする。こんな時間にラボは勿論、全館、残っている社員など居ない……はず。だがしかし、この妙な胸騒ぎにも似た高揚感を、彼女は知っていた。戦場や治安維持としてあたる暗殺任務の際によく感じるこの感覚。シックスセンスというものだろうか。体中が疼き、全神経が異常なほどに研ぎ澄まされる。誰も居ないはず。しかし昂ぶる身体。錯覚だと決め付けるか、それとも第六感を信じてみるか。

さて、どうしたものか。

こんな場合だというのに、否、こんな場合だからこそ、彼女はひどく冷静だった。
しかし迷っているうちに、第六感は薄まり、代わりに五感がその存在を主張し始めたので彼女はまたため息をつくと、今しがたまとめたばかりの書類をデスクの中にしまって、一瞬で振り向く。同じ瞬間に突きつけられた、目に近過ぎてぼやけるそれが徐々にはっきりと、その輪郭を、正体を現していく。

さて、どうしたものか。

彼女は眉間に銃口を突きつけられていた。
しかも知らない人間に。いや、知っている人間でもそれはそれで心が痛むのだけれど、知らない人間となると、仕事柄仕方のないことなのだが、心当たりが多すぎて対処の仕方に迷うのだ。銃口に意識を集中させて、視線は物騒なものを突きつける人間に向ける。黒くて大きなガスマスクのようなものをすっぽりと被った、これまた大きな、多分、男。変声機でも使っているのだろう、ひどく聞き取りにくい声で。

「 "医療部門統括 リナリー・リー" だな」

白衣には写真付きの名札が付いているのだから胸元を見れば解ることだろう、と思ったが、この白衣についている名札は "開発部門 科学開発部 リナリー・リー" だったことを思い出したので一応「ええ」と返事をしておいた。まったく、これだから掛け持ちは面倒で嫌なのだ。いやしかし、今の男の態度で、目的がなんとなくだが解った。医療部門統括としての自分をもとめているのならば、おそらく。

「『G』の資料を渡せ」
「『G』?」
「知らぬふりをしても無駄だ。早く渡せ」

知らぬふりはしていない。まさか医療の人間を呼び止めて『G』を言うとは思っていなかったのだ。それに、もし知らぬふりをしていたとしても『G』と言われただけでは解らないのは事実だ。ラビと神田の最初の『Gの一件』のことか、2度目の『追加捜査』か、それとも。

「20年前、貴様らが違法的にしていた実験だ!」

ああ、やっぱりそっち。

「……20年前、私は生まれていないけれど…」
「とぼけるな!貴様が前統括者であるアニタから引き継いだモノだ!さあ!命が惜しければ渡せ!早く!」

最初はこの不審者がマスク越しに軽々しくあの女性の名を呼んだことに苛立った。
で、その苛立ちが治まりかけて次に、なぜこいつが知っているのかという疑問が浮かんだ。アニタさんから引き継いだという事実は、兄であるコムイさえも知らない、本当に限られた一部の人間のみが知りえることなのに何故?スパイ?あり得ない。外に情報を渡して得をする人間は『G』には誰も居ない。だったら、考えられるのは?

「『02生成法とその量産』だ!あるだろう!早く!早く出せ!」
「………そう…」
「ッ?」

そこまで知っているのならば、もう。

「お前は生かして帰さない」










君の傾斜 僕の傾斜