寝る前にはベッドの中で文庫本を読むのが神田の常だったが、さすがに今はそんな気になれなかった。ずっと昔に割り当てられた部屋の、染み一つない天井をながめる。寝付けないのはあたりまえだ。あんなことはそうそうあるものではない。
しかし勿論、明日も仕事がある。
ためしに目を閉じてみても、浮かぶのは緑色の液体と、嘔吐するラビの姿だけでよけいに気分が悪くなる。今頃ラビはどうしているだろう。最後にみたとき、ラビはタイミングよく現れた(やはり、つけられていた)医療部門の人間に担がれていた。その数時間後にかかってきた電話では、まだ意識は戻らず、しかし暴れるので麻酔を打って寝かせているのだと、リナリーが言っていた。気丈な彼女にしては珍しく、震えているような声だった。
『……とまらないの』
あの時、あの部屋の扉が開いた直後、完治していたはずのラビの左肩の傷がパックリと開いたのは、自分も見ていた。ひどく驚いたのは、なかから溢れ出してきたのは血ではなく、あの緑色の液体だったからで。傷を再度縫合した今でも、染み出てくる液体は包帯を緑に染め上げる為、数時間おきに取り替えられている……らしい。
一番最近の電話は20分前のもので、その時点でもまだ、緑色の液体は流れ続けていると言っていた。暫くは面会謝絶になるだろうから、なにかあったら連絡するように、ともいわれた。随分疲れているような声色だったけれど、どうしても尋ねておきたかった。あの液体の解析は進んでいるのか、と。
『包帯を替えるときはね、万が一のためにライフルを持っている人を数人、傍につけるの。でもラビが暴れたらきっと、ライフルなんかじゃ止められない。まだ解析途中だけど、あの液体に運動能力を高める作用があることは間違いないらしいよ。』
運動能力を高める作用。
ドーピング……程度で済めばいいが。
どちらにしても、今の自分に出来ることはラビの回復と解析結果を待つことだけだ。
神田は寝返りを打って、枕に顔を埋めた。
まどろんでいた意識が急に覚醒したのは、自室の前で複数人の声が聞こえたからだった。
事情は知っているだろうに……こんなときくらい静かに眠らせろ。怒鳴りつけてやろうと、ドアに近付くと、口論が聞こえた。それはもう、はっきりと。
「しかし、リナ嬢……我々にも都合というものが……」
「彼は酷く疲弊しています。後日になさい」
リナリーと、多分、総務の人間。
それにして、こんなに冷ややかな口調の彼女は珍しい。
「それとも、今この状況下で神田を詰問しろという命令を、社長が下されたの?」
「詰問など……いや、社長はなにも……しかし……」
「なら今日はお帰りなさい。」
「しかしッ!!」
「……貴方達は何時から私に反論できる立場になったの!?」
「怒るなよォ、リナリィー。可愛い顔が台無しー」
そろそろ仲裁してやろうと、ドアにのばしていた手を思わず引込めてしまったのは、その声が、あまりに珍しいものだったからだ。特徴のある粘着質な声は、一度聞いたら忘れられない。
「………ロード」
「Hola」
「………神田は疲れてるの。それに……たぶんなにも覚えてないわ……だから…」
「ふうん」
沈黙が続いているのは多分、ロードがリナリーを品定めするように見つめているからだろう。あの目に見上げられると、どうにも居心地が悪くなるのは昔からだが、それなりに仲のいいリナリーにもあの視線を向けているのだろうか。
「…………おっけぇ。んじゃあ今日は退くよォ」
「ロっ……しかし、ロードさま!?」
「うっせェ。リナリーが言うんだったらそぉなんだろォ」
「ありがとう」
「んじゃあ、ユウさまによろしくねぇ」
複数の気配が足音とともに小さくなっていくのを確認した後、ドアを開けると、ツインテールの女性が申し訳なさそうに立っていた。先ほどまでの態度がウソのように縮まるものだから少し可笑しくて、素直に言えた。
「……助かった。」
「え、ああ。いいの、………」
「しかし、総務まで動き出すとはな……」
「うん、……」
「リナリー?」
「……ここじゃなんだから、……入っていいかな?」
一般常識として、日付が変わった直後に女性を部屋に迎え入れるのはおかしいことだが、自分とリナリーは例外だ。十数年で培った一番心地のいい関係は、多分もう変わりはしないだろうという自信がある。
「神田の香水のにおいがする」
「………ほっとけ」
「ううん。悪いことだなんて思ってないよ」
「クロスには言うなよ」
「酒の肴にされちゃうね。」
「言うなよ」
彼女は笑ったけれど、やはり疲れているのだろう、顔色が悪かった。
いまにも倒れそうに思ったので、ソファに座らしてホットミルクを作ってやった。
「さっき電話でも言ったけど、やっぱりアレ、運動神経を高める作用があるって。」
「………そうか」
「うん。でね、………」
言いにくそうにマグカップを見つめるものだから、こういう場合は年上である自分が確りしなければいけないのだ、と思う。思うのだが、どうにも今はそういうテンションになれないでいた。
「で?」
「うん。これはクロスさんが言ってたことなんだけど、ラビの肩の傷口から摂取した液体と、あの部屋の試験管内の液体と、『G』のときに神田が採取して持って帰ってきた液体が……」
「一致したのか?」
「うん……あの、それで…」
「なんだよ」
彼女が勢いよく顔を上げた。
その目は揺れていたけれど、確りとした意思を持っていて。
ああ、言われてしまうのだなと、どこか他人事のように思った。
「神田のとも、同型だった……の。」
「そう……か……」
「ごめん……ね…ッ」
泣きそうな顔でそう言われて初めて、彼女が最初から、任務に赴く俺たちを見送りに来たときから、今回の件の全てを知っていたのだと理解した俺の頭は、そうとうに湧いていたのだとおもう。
膝の上の日常