望まれない命なんて無いのだよ、ユウ。
長閑。
そうしか言いようの無い、田舎の小さな村は緯度の関係もあってか、かなり暑い。虫が耳障りに騒ぎたて、空は低く、積乱雲が遠くに見える。時たま吹く風は温い空気を掻き乱すだけの余計なものでしかなくて、神田は正直参っていた。こういうとき、長髪は損以外のなんでもないのだが、しかし彼は髪を短くしようと思ったことはない。別に願を掛けているわけでもなんでもないのだけれど。ひとつ理由があるとすればそれは、珍しくもない黒髪を、大昔、あの人が褒めてくれたことだろうと推測する。そう、ここはあくまで推測なのだ。自分の確かな気持ちなど、あまり理解できない。ただ、多分、自分の中で今でも一番大きな範囲を占めているのはあの人だとおもうから。だからきっと、髪を伸ばす理由はあの人にあるのだ。あの人が思い出の中で髪を褒めてくれる限り、きっと、この長さを維持し続けるだろう。
とはいうものの、暑いのはどうにもこうにも仕方ないことだった。
額に滲む汗をハンカチで丁寧に拭きながらも、神田は制服のスーツはカッチリ着込んでいる。社則 第二条4項 『身だしなみの原則』を意識しているわけではない。唯なんとなく、スーツカッチリ着込みたい気分なのだ。そう、なんとなく。
決して隣を歩く能天気な男が第3ボタンまで外した皺の入ったカッターシャツをだらしなく着て、何処から取りだしたか定かでない扇子で己の顔面扇ぎまくっていることを意識しての意地などではない。断じて。それにしても。
タメとはいえ上司の前でシャツ肌蹴て扇子使うか、普通?
欠片も気に留めない、というか暑さで頭がいっぱいの、高緯度出身な相棒を軽く睨み、神田はため息と共に一言。
「ここだ……多分」
目の前には赤レンガ造りの赤い屋根の家。
大きくも無く、小さくも無くごく普通の一戸建てだ。
「多分て………曖昧さ……」
「うっせー。疑うんなら別行動しろ。」
「拗ねないで下さいよー」
「拗ねてね−。暑さで脳ミソ湧いてんのか!?」
「そーかもー」
「………馬鹿が」
『Gの一件』、その追加捜査がふたりに命じられたのは急なことに、一昨日だった。
全治半年のラビの怪我が癒えてからの初めての社外任務。本人はいい加減デスクワークに飽き飽きしていたので喜々として臨む体制を見せたが、神田は不満だった。『Gの一件』以来殆どの部門が行ってきた追加捜査。その最後の詰めである首謀者の拘束と施設の回収を、治安維持の人間だとはいえ、たった二人に任せるという上の意向に納得がいかないのだ。泳がされている気は勿論ある。だがしかし、今の幹部連と社長が、ラビはともかく、自分を危険な場所に放り込むはずはないと思うのも確かで。
大事な研究があるとかで半月ほどラボに缶詰だったリナリーが態々正面玄関まで見送りに来たことも気になる。彼女はああ見えて結構な幹部で時には社長命令さえ覆すほどの権力を持っていたりするお偉いさんだ。その彼女が昔の馴染みとはいえ、只の追加捜査の見送りに来るのはおかしすぎるだろう。裏があるのは十分わかっている。だからこそ。
「油断するなよ」
「わーってるさ。もーあんな目に遭うのは勘弁!」
大げさに肩を擦っておどける姿に神田は聊かの不安を覚えるが、それよりなによりさっさと終わらせてこの蒸し暑い田舎とおさらばしたい気持ちが勝っていたので余り気にかけずに、やはり黒のファイルを開いて最終チェックをした。
「任務内容は把握してるな」
「題して『首謀者とっ捕まえて連れて帰れ作戦 in 赤い屋根のおうち』っすね」
「………殺すなよ。んで、施設の破壊は最小限にとどめろ。治安維持の後に科学開発の連中が捜査に入る予定だ。あそこはクロスんとこだから、余計な揉め事は起こすなとコムイから言われている……」
「イェッサァ!てーかコムイさんってマジに実力で治安維持の統括になったんッスか?」
神田が視線を隣にやると、ラビは少しだけばつが悪そうに笑った。よかった。一体何がよかったのかは解らないが、なんとなくそう思った。神田は勤めて冷静に、冷ややかに、返事をしてやる。
「………実力、だろ。どうかしたのか……?」
「いや、なんとなくなんスけど。ホラ、あの人、蚊も殺せなさそうじゃん?」
流石に蚊は殺せそうだけれど。でもあの白い細い腕一つで暗殺のエリートコースを駆け上がってきたとは、ラビには思えなかった。腕のほうもあるけれど、あの人は温和な性格のようだし。とても殺しを生業とするようには見えない。
「………コムイは元々科学開発部に居たんだ。」
「へ?科学開発って……治安維持と一番遠い部門さ。」
「だから、だろ」
神田は呆れたように眉を吊り上げる。見下されている、と今度ははっきり思った。けれど、彼の特徴ともいえる遠まわしな話し方では、どうも理解できない。
「だから?」
「左遷。」
「う、わー……でも、え?治安維持って他部門より階級上じゃあ……?」
神田は、今度はフンと鼻を鳴らした。
この威張りくさった感が、よく似合っていると思う。
「おまえ、普通の人間が、給料いいからって進んで殺ししたがると思うか?」
勿論、思わないだろう。生憎自分は普通ではないから、そのあたりのことはよくわからなかったが。けれども。治安維持にくることがイコール左遷になるのならば。
「安心しろ。製品開発からきたお前はコムイよりも酷い」
「あー……そーさねー」
「でもまあ、そうだな」
「は?なに?」
「蚊も殺せねェってやつ」
「ふーん」
「あいつはきっと一生蚊ァ、殺せねェよ………」
あの弱い人間はむしろ、飛び交う蚊を自らの腕に招くような人間だ。そうして自分の血が抜き取られるのを、唯黙って見ている。それが正しいことだと思っている。多分、間違いだとは一生気付かないだろう。気付いてももう手遅れだ。血は抜き取られて、代わりに得体の知れない体液を入れられて、取り返しが出来ないことを嘆きもせずに、受け入れてしまうのだろう。そう云う意味ではコムイもクロスも、あの人も似ている。
つまらないことを考えてしまったと、神田は大きくため息をつきながら愛銃の安全装置を解除した。しかしラビはそれに習おうとはしない。もう行くから、解除しておけ。云ってもきかなかった。ギリギリの方が、スリルあるっしょ?てーかそれよりも、
「ため息つくと幸せが逃げるって言うぜ?」
「………とりあえず扇子をしまえ。で、懐中電灯と銃を、いいかげん持て。」
能天気な返事が唯でさえ高い湿度を更に上げたように思えて、神田はまた、大きく息を吐いた。
膝に残る記憶