自分もたしなみ程度には付けているのだが、どうも昔から、香水というものが嫌いだった。
仕事柄人と接することも多いので顔に出したりしないが、本人の雰囲気と合っていなかったり明らかな付けすぎだったりするとムカつきを通り越して眩暈がする。それほどに香水というものの存在と、それをつける人間の心理を理解できない。
だが彼女は例外だった。
彼女のどこか神秘的な存在感と彼女の香水はよく合っていたし、鼻先をくすぐる程度の甘い香りは嫌いではない。だからこの先、できれば香水を変えないで欲しいと密に思っていたりする。
「きいてるの?」
突然大きな瞳に覗き込まれて神田は咄嗟に息を呑み、それと同時に彼女が運転する車が停止したことを理解した。どうやら相当呆けていたらしい。外を見ると、丁度正面玄関だった。
「悪ィ………」
「いいよ、そのかわりコレお願いね」
返答する間もなく押し付けれられたのは今回彼女とこなした任務の報告書。丁寧にファイリングされている其れを上に渡せ、とそういう意味なのだろう。
「書いておいたから」
「………ああ」
「78階、会議室Aまで提出願いまっす」
「はぁ?情報処理んとこじゃ駄目なのか?」
「直々に、とのご命令でっす、神田さん」
おどけていう彼女の表情を見て初めて嵌められたことを知る。
78階は彼らの所属する治安維持部門と重要会議室が在るフロア、この会社の核と言ってもいい所である。別に78階が嫌いなわけでも煙草臭い会議室が嫌いなわけでもない、嫌いなのは。
「幹部直々の、だよ?」
「……それがヤなんだろ」
「そだね」
辛気くさい女幹部に、口うるさい中年、自己中心のカタマリのような男に、仕事より趣味優先のオヤジ、更にはシスコン。我が社の幹部連はそろいもそろって、いろんな意味で馬鹿だった。そのうえ性格が捻ていた。それはもう、素晴らしく。
報告書を持ったまま微動だにしない神田を見かねて、女性、リナリー・リーは苦笑する。
「しょうがないなぁ。じゃ、ドアの前までついて行ってあげる」
豪勢なドアの奥から再び神田が出てくると、律儀に待っていたリナリーは、笑顔と共に一言。
「待っててあげたから、何か奢ってよ」
「………奢ってやるから鍛錬付き合え」
「それって私、損じゃない?……別にいいけど」
神田は体術に自信が無いわけではない。
だが、リナリーには劣っていると自覚していた。
その力の差が鍛錬を重ねて埋まるものではないことも、幼い頃既に理解していた。天才だと思っている。体術において彼女の右に出るものを神田は未だ知らない。
彼女の蹴りは真空を生み、その拳は大地をも揺るがす。
彼女の隠れファンはそういっていた。また、彼女の兄には「リナリーの拳は天然のメリケンサックだよ」と、鼻血を垂らしながら報告されたことがある。それは流石に言いすぎだとおもうが、見かけによらない怪力の持ち主だとは思う。だが、彼女の本来の戦い方は『柔』に在った。相手の力を上手く利用し、否す。有を一瞬で無に変える流れるような動作は神田が何年練習しても身につけることが出来ないものであり、彼女が天才と呼ばれる所以だ。
今も、神田の蹴りをひらりとかわしたと思うと、もう次の姿勢に移っている。神田がひとつの動作をする間にその2倍も3倍も、彼女は動いた。コレが実戦ならもう数回死んでいるだろう。そう思うとやはり口惜しくて、何度も挑んではかわされた。
「兄さんのいってた通りだね」
約束どおり奢らせたクレープを頬張りながら、満足気にリナリーが呟いた。
神田はコーヒーカップを静かに置く。
「あ?」
「神田、表情、柔らかくなったよ」
「ねぇよ」
「照れるなよー」
「ねぇよ!」
「ラビのおかげ、かな?」
彼女の瞳が悪戯っぽく煌いたせいか、妙に居心地が悪くなって、神田は視線を逸らす。くすくすと、可愛らしい、しかし遠慮を知らない笑い声が続くから、やはり此処は否定しておくべきだ。
「………ちげー」
「逢いたい?」
「はぁ?」
「だから、逢いたい?」
「なわけねぇだろ。お前ホントウゼー」
「うざくない」
「うざい。ってか奢ったし、もういいだろ、帰るぞ」
少しだけ肩を怒らせる神田の後姿はほほえましくて。
リナリーは少しだけ寂しくなる。
「神田、自分を責めないで。もう、赦されてるよ。笑って……いいんだよ?」
その声が本人に届くことはなかったけれど。
孤独の残り香