「怪我は?」
「はっ、新入りのほうは現在も意識不明ですが、本人は命に別状ありません」
「そうか………まぁ傷が癒えるまで暫くはオフィス勤務だな。」
「はい。」
「丁寧に扱えよ、あれはあの方の遺物で、この俺のものなんだからな」
「は。」
ぼんやりとした視界が徐々に鮮明になっていくこの時間が煩わしい。
高い天井には染みひとつなく、機械の稼働音とヒールの音だけが部屋に響いている。此処は多分医務室。俺はきっと結構な傷を負って此処に隔離されているに違いない。確か神田とかいう奴と任務について……そこで気色悪いものを見たような気がしないでもないが、余り思い出せない。考えようとすると酷い頭痛に襲われるので、やめた。
今生きているという事実があるだけで十分だった。
身体を動かしてみようと力を込めるが、思うようにいかない。
特に左腕、左肩が酷い。少しでも力を入れようとすると激痛が走る。
「あー……そーいえば。」
犬みたいな化け物にやられたのだった。
角だか爪だかわからないものを貫通させられ、その後の記憶、意識はない。
唯、何かを求めていた感じ。其れが何だったかはどんなに考えても思い出せない。頭が痛い。解るのは、多分自分はもう犬に気軽に触れない程度には犬が怖くなっているだろうということだけ。
「ずいぶん大きな独り言、だね」
正直、ぎょっとした。
あわてて声のほうに視線を向けると黒髪を胸元で揺らす女性が顔を覗きこんでいた。覚醒直後で曖昧な感覚とはいえ、人の気配を察知できなかった自分がほんの少しだけ不甲斐無い。ああ、そういえばヒールの音がしていたっけ。動揺を隠すように、抑えた声色で。
「……そっすか」
「そうだよ」
女性は人のよさそうな笑みを浮かべた。
どこかで見たことのある笑みのように思えたが、頭痛がしたので考えることは断念した。
「あ、起きちゃ駄目だよ。チューブが取れるから」
起きようとするその前にやんわりと釘をさされる。
指摘されて初めて自分の身体を眺めようと頭だけ持ち上げると成る程、左肩をはじめ身体のあちらこちらから長い管が伸びている。これが治療してくれているとはいえ、余り気持ちの良い光景ではなかった。最近は気持ちの良くない光景によく出会う。
「2週間と3日の昏睡状態お疲れ様でした」
微笑む女性は、白衣というオプションを差し引いても絶世の美女だった。
「……アンタは?」
「あれ、知らない?……そっか、初対面だったか。私は資料とかで数ヶ月前から知ってたんだけど、君は……そうだね。初めてだよね。私あんまり人に会わないからなぁ。ほら、オフィスとラボに缶詰だから。」
「はあ……で、アンタは?」
女性は綺麗に笑った。
「リナリー。リナリー・リーよ」
「へぇ……あ、俺――――」
「知ってる、ラビくん。神田の新しい相棒」
「神田を知ってるんですか?」
「敬語じゃなくていいよ。私のほうが年下だし。神田のことは、よく知ってる。私も同じ治安維持だからね」
「んじゃ、なおさら敬語じゃん。俺、後輩に当たるし……」
「いいよ、そんな堅苦しい部門じゃないから」
「そう………じゃ、タメで。」
「うん。タメね」
やはり何処かで見覚えのある綺麗な笑顔だった。
「ラビくんは……」
「ラビでいい」
「うん。ラビは身体が動くようになったら諜報部とか偉い人たちにいろんなこと質問されると思うけど、頑張ってね」
彼女曰く、正直に且つ迅速に回答しないと酷い目にあう、らしい。
だが酷い頭痛のうえ、記憶が曖昧……というより殆ど無いに等しいのに、どうしろというのだ。其れを彼女に言っても仕方の無いことなので口には出さなかったが、内心不安で仕方なかった。
身体は彼女の予想以上に速く、というか、ありえないほど早く回復し、あっというまに解放された。俺が隔離されていた部屋はどうやら別館の最奥だったらしく、本館と繋がる連絡橋までリナリーに送ってもらうことになった。道すがらの会話は退院後の自己治療についての諸注意や貰った薬の服用法、通院の日程やその場所など、退屈で難解な内容だったがコンプレックスである記憶力のお陰ですんなり覚えられた。
地上40階にある連絡橋は思ったよりも長く太いトンネル状のもので、歩道のほかに2車線もコンクリートの道路があり、両端には車用の大きな両開きスライドドアと人などが通る用の片開きスライドドアが付いている。高所恐怖症というわけではないが、渡っている最中に落ちるのではないかいう不安があった。しかし、車道を2tトラックが堂々と走っているのを見てからは少しだけ気が楽になった。と同時に社内をトラックが走っているという事実に改めてこの組織の威力というか権力というか、を見せ付けられたような気がした。
「はい、退院おめでとう」
スライドドアの手前でリナリーが立ち止まり、自分もそれに習う。
「どーも」
「事情聴取、頑張ってね。」
「まあ、程ほどに頑張るさ」
「うん、ほどほど、ね。」
彼女は一瞬だけ切なげに眉を寄せると俺の後へ回り華奢な手で背を押した。いいタイミングで開いたドアの向こうへ軽くつんのめった俺に小さく一言。
「それと……神田のことも頑張ってね。」
何のことだ、と振り返ると丁度ドアが閉まり、あちら側でリナリーが悪戯っぽく笑い、手をひらひらさせている。もう一度ドアを開けてまで訊く気にはなれなかったので俺は軽く手を振り返すと長い橋を歩き出した。
「さて、はじめようか。」
「出来るだけ手短に」
「正確に」
「我々も暇ではないんでね」
「奇遇ですね。俺も、それを望んでいました」
橋の端(洒落ではない)にいた結構綺麗な顔のおねーさんに連れられた先は地下の何階かは忘れたが、だいぶ地下の薄暗い大きな部屋だった。
其処での光景は茶番を通り越して滑稽にさえ思えるものだった。
ドーナツ状に並べられているデスクの中央にあるパイプ椅子に座らされ、尋問が始まる。どこかの古いドラマやSFアニメのような図に少し噴出しそうになったがなんとか耐えた。
見たことの無い顔と新聞やらテレビやらで見たことのある顔8つ ――――何れも中高年の男性―――― に、穴が開くほど見つめられる。正直、居心地悪い。空気までもが淀んでいるような感じ。
「大方のことはクロスから聞いているのだがね、詳しく教えてもらおう」
ねちねちとした言い回しが気に食わない。
「詳しくも何も、記憶が無いんです。」
「では記憶がなくなる前までのことを」
換気扇も無い部屋で葉巻を吸う、幾分肉付きの良い中年が下劣な目で質問する。この集団はなんなのだろう。幹部なのだろうか、それとも、こういう機会のための秘密部門だったりするのだろうか。どちらにしても好きになれない。
「………報告書どおりの筈ですが」
「聞かせてもらえんかね?」
「アジトの地下にいた犬みたいな化け物に襲われた、それだけです。」
すると突然老人達が目の色を変え、口々に喋りだした。報告書は俺が意識を失った後現場にきた(らしい)開発部門のクロスさんが提出した、とリナリーが言っていたので、きっと犬のことも記されているのだと思っていたが、言わないほうがよかったのかもしれない。
それにしても、目の前の中年はよく喋る。
加齢臭を振りまかれている想像をしてうっかり嘔吐するところだったが、やはり耐えた。
「ほう、犬……」
「犬かね」
「化け物とは……」
「やはり――――」
「クロスの奴………」
「裏切りか?反逆か?」
「どちらにせよ目障りに違いない」
「で、神田くんはどうだった?」
その一言が自分に向けられたものだと解るまでに数秒要した。
「神田、ですか。」
「そう、神田ユウくんだよ」
「さあ、別行動でしたので……」
「別行動……?」
「やはり何かを?」
「しかし何故今更」
「遺志を継いだということか………」
「………あの、もういいですか。もう覚えていないので。」
8対の目が一斉にこちらを見つめる。
やはり、気分のいいものではない。だが、此処にこれ以上いて余計に気分を悪くするよりはましだ。もういちど、要請した。もう、いいですか。
「アァ、そうだね……送らせよう。」
「今人を呼ぶから、少し待ってくれたまえ」
「その必要はありません」
手元の電話で内線を繋ごうとする男の声を、別の声がさえぎる。
此処の老人達に比べ明らかに、若く、張りのある凛とした声。
老人達も自分も、反射的に声のほうを見た。
いつの間にか開かれたドアの前に堂々と立っているのは、約3週間ぶりにみる相棒の姿。先日結わえらていた髪は、今は解かれて背中に流れている。スーツをきちんと着こなすその姿はとても自分と同年代だとは思えないほどに大人びていて。
神田ユウ、その人の登場に老人達は明らかにうろたえた。
慌てて目を逸らすものや俯くもの、ぶつぶつ独り言を言うものまでいる。そのあからさまな態度を気にも留めずに、神田はこちらに歩み寄ると、乱暴な手つきで、負傷していないほうの肩を引いた。そして8人をぐるりと見渡す。
「これから任務がありますので、私がそのまま連れて行きます。」
「ああ……そ、そうですか。さ、ラビくん行きなさい。ご協力ありがとう。」
神田が開けたドアをくぐる最にはっきりと聞こえたのは老人の悪態。
その直後に聞こえたのは、神田の酷く単純で短い、下劣な悪態だった。この顔で言う言葉ではない。老人達には聞こえない小声だったが、余りの迫力に一瞬ひるんでしまった。
「チッ、糞野郎。土に還れ」
骨の軋む音