矢のようにとはいかないが、それなりの速さで飛んでいく窓の外の景色を、ラビは眺めていた。
発掘した新しい資源と其れを利用した産業のおかげで、あれよあれよ云う間に目を見張るばかりの成長を遂げ、今尚発展し続けるこの街は、当時を知る人間はもう数えるほどしかいないだろうが、ほんの数十年前までは只の田舎だった。
今のこの街は最先端の技術を駆使した建物が立ち並び、交通の便もいい。そのため、今では首都に劣らないほどの人口を抱える大都市となっている。だが、急速な大気や土壌の汚染で緑という緑は枯れ果て、水も、人が飲むには汚れすぎてしまった。環境の汚染は新たな伝染病を呼び、開発された僅かなワクチンを打つことができない貧しい人々は、成す術も無く、只死んでいくだけだった。路地には親を亡くした子供達が溢れ、仕事を無くした大人と争いながら、栄養価の足りない食物と、汚水を飲み、ギリギリの生活をしていた。
こう云う光景を目にするたび、胸が痛んだ。
贅沢な生活をするべきなのは、今、ビルの上の空調付きの部屋でデスクワークをしている人間達よりも、此処にいる浮浪児達なのだ。と、思ってみてもこれが現実なのだけれど。
「シートベルトを締めろ」
まさか話しかけられるとは思っていなかったので、ラビは其れこそ本当に少し飛び上がって驚いた。幸い、声の主に見られることはなかったが。
「……運転手とか、いないんすね」
車を運転しているのはつい先ほど自分の上司兼相棒になった神田。
自分は助手席で何をするわけでもなく、言われるままにシートベルトを着用する。
「なにぶん、人員が不足しているからな。それに機密が漏れる恐れがある」
上が用意したという車は、どこにでもありそうな乗用車だった。
神田曰く、目立ってはいけない、ということらしい。だがそれでも、車など滅多に通らないであろうこの路地では十分に目を引く。時折浴びせられる非難や憎悪の視線に若干の胸の痛みを感じながらも、車を止めることは勿論無い。
「計画書には目を通したか」
「はぁ……一応。」
「内容が頭に入るまで何度も読んどけ」
「もう、覚えましたから」
そのとき僅かに神田が驚いたような表情をした。勿論、視線は前に向けたまま。ウィンカーを出し、右へハンドルを切る。それだけの仕草が絵になって、妙に居心地悪くなる。
「それは……優秀だな」
「俺、一度観た物は覚えちゃうんですよ。」
「……便利な頭だ」
「そうでもないっすよ。忘れたいこととか、忘れられないし」
一瞬目を細め、"忘れたいこと" を思い出していたラビは気付かなかったが、神田はその一瞬だけラビのほうに目を向け、その哀愁漂う表情を見た後、また前を向き自分も目を細めていた。
忘れたいこと。
あの人の腕のぬくもりと、あの人の血のぬくもり。
今でも偶に夢に見る、あの夜の静けさと、明けた朝の無慈悲なほどに眩しい光。
だが、それは今の任務には何の関係も無い。
「……そうか」
「ていうかコレ、オートマなんすね」
ラビはいつの間にか湿気た表情を隠し、支給された黒い得物をいじっていた。
まるで新しい玩具を与えられた子供のように銃を触る様に、神田は無意識に、苦笑にも似た笑みを洩らす。
「使うのは初めてか?」
「軍学校の頃は、もっぱらライフルでしたから。でも使ったことはあります」
「……軍に、入りたかったのか?」
「さぁ、何にも思ってませんでしたね。唯………」
唯、強くなりたかった。
強くなって、村を奪った糞供に、全てを奪っていったあの女に。
目に物見せてやろうとおもっていた。
唯、それだけ。
「唯?」
「いえ、なんでもないっす」
神田はそれ以上追求することなく、其処から先は任務の話のみとなった。
それが神田なりの気遣いだと、初対面のラビは気付かなかったのだが。
入り組んだ路地の突き当たり、小さな一軒家の、その地下が今回の任務の目的地だった。車を横付けして、得物を持つ。神田は両手に革のグローブをはめ、ポケットからもう一対取り出すと、ラビに差し出した。
「俺、いいっす」
「遠慮するな。上からの支給品だ」
「いや、素手じゃないと感覚鈍るから」
「……そうか。」
「てゆーか魔物とか……かなりオカルトっスね」
「魔物かどうかは判らんが、突然変異という可能性は十分あるな」
「突然変異、ねぇ」
計画書には四本足の魔物の目撃情報が書かれていて、どう見てもこの路地に不釣り合いな黒塗りの車に乗り込む男達の写真が同封されていた。魔物の存在はともかく、少なくともこのボロ小屋の地下で何かが行われていることは確かだった。だが。
「俺達の任務って、『組織に邪魔な要人の暗殺』じゃないんすか」
「勿論、其れが主だが………」
「こういうのも有る、と。」
「そういうことだ」
「ふーん」
「軍では手に負えない事件の場合、軍から依頼されて、ウチがでていくことになっている。つまり、軍の人間が梃子摺るほどには強敵だということだ」
神田はトランクからアタッシュケースを取り出し、好きに使え、とラビに手渡す。開いてみると、中は武器や発信機、金属探知機から注射器まできちんと整頓されて入っていた。映画みたいだ、とぼんやり思う。どれを使う?尋ねる相棒にコレがあれば十分、と先ほど車内で弄んでいたハンドガンを軽くあげてみせた。神田は少々不満げな表情をした後、アタッシュケースを閉じ、自分は制服である黒スーツの懐から銀色に輝くリボルバーを取り出した。なんだよ、自分もハンドガンじゃないか。日光を反射して煌くそれはひど綺麗だったけれど、無数の傷が付いていて。
「結構古い型ですね」
「まあな」
「しかも相当使い込んでるさ」
「………… "お古" だからな」
誰の、とは訊けなかった。
神田は訊くタイミングを与えてくれなかったし、一瞬前にはあった興味も、次の瞬間にはもう無くしてしまっていたから。こんなご時世だ、多分、家族の形見とかそういう物だと勝手に思っておこう。
「……先輩」
「なんだ」
「俺に先行かせてもらえますか」
「……好きにしろ」
「どーも」
この街では比較的珍しい引き戸をゆっくりと開けると、むわっとした空気があふれ出る。
神田は僅かに眉を顰めた。窓が一つついているだけの閉じられた空間は、かび臭くて埃っぽい。実際、外から差し込む日光が立ち込める埃を影に移していて、くしゃみが出そうになったが、それでは余りにも格好が付かないし、危険なので何とか堪えた。目に涙が溜まる。用心しろ、と神田に小声で注意されるが、そんなことは言われるまでもなかった。いつでも発砲できるように安全装置を解除し、脇を締める。ワンルーム……というか土間と閉められた窓しかない小屋を一瞬で見回すと、隅のほうに小さななにかをみとめることができた。神田がすかさず狙いを定める。老婆だった。痩せこけているわけでも、太りすぎているわけでもない老婆は、にこにこしながら二人を出迎える。まるで数年ぶりに遊びに来た孫を出迎えるように、しかし、老婆にしては軽すぎる足取りで。おもむろにラビに近寄る。この暑さだというのに随分と着こんだ服の上からでもはっきり見て取れる不自然な胸のふくらみは恐らく、いや、確実に老婆の得物だった。
「おやおや、珍しい。こんな辺鄙なところにお客様とは……何の御よ……」
音も無く、勢いよく老婆の頭が飛ぶ。
血を噴出して舞う首が地面に落ちるのと、サイレンサーをつけた銃をラビが下ろすのはほぼ同時だった。
「モンスターを退治しに。」
鮮血を浴びながら表情ひとつ変えないラビを、神田もまた冷ややかな表情で気取られぬよう見つめる。癖のある奴だとは聞いていたが、これは結構、手がかかりそうだ。
いいから泣けよ