エレベーターの、特に本部のエレベーターの臭いがたまらなく嫌だった。
閉じられた空間に自分以外の人間が居るときは特に、臭いがきつい気がする。だが、だからといって街で一番高いビルを階段のみで移動することは不可能だ。彼は出来るだけ息を止めて次々に点灯する数字を苛々しながら眺めていた。

47階。小気味の良い音を鳴らして、エレベーターが停止する。
乗り込んできたのは長い黒髪を緩く結わえて肩に流している女性。女性にしてはかなりの長身で、真っ黒なスーツを着こなす姿は、思わず見とれてしまうほどだった。彼女はラビを見て一瞬眉を顰めたが、すぐに無表情に戻り、自分が降りる階のボタンを押した。

ゆっくりと動き出すエレベーターのなかで、勿論ふたりは会話などしない。別に話をしたいわけではなかったが、エレベーター内でのこの沈黙も、ラビは好きではなかった。

女性の降りる階に到着し、ドアが開いて、閉じる。
そしてまた、悪臭を放つ直方体は上へと昇っていく。
街で一番高いビルの、一番天辺、屋上階を目指して。

そのときラビは、その女性が降りた階が最上階の一階下、78階。
今日から自分が出勤しなければならない部署の階だということに気付いていなかった。















白い煙を肺いっぱいに吸い込んで吐き出す、その単純な行動も行う場所が屋上だといい気分になるのはきっと、普段から蓄積されたのストレスを煙と一緒に吐き出せるからだ、とラビは勝手に思っている。腕の時計は午前10時過ぎを指している。大した遅刻だったが、彼にとっては遅刻しないほうが希なので特に気にならなかった。それよりも気に掛かったのは文字盤でキラリと反射した日光で、彼は空を見上げた。昨日と変わらず日差しはきつかったが、風があるぶん、マシだ。彼は視線をフェンスの下にずらした。
人や自動車が塵のように見える屋上では、なんだか自分が世界を支配したような錯覚を覚えさせられる。それが唯のアブナイ妄想だということは十分に理解していたが、それでもその妄想がたまらなく気持ちの良いものなので、彼は喫煙と妄想のため、頻繁にここを訪れていた。

フィルタがすっかり茶色くなり、短くなった煙草を外の世界へ放り投げよう、と思って。

「……ポイ捨てはよくないなぁ」

背後からかけられたその言葉と、全く感じ取ることが出来なかった気配に、ラビは驚きを隠せなかった。恐る恐る、だが其れを悟られないように振り向くと、色白の、いかにも貧弱そうな男が、いかにも人のよさそうな笑みを浮かべていた。右手には煙草、左手には文庫本を持って。

「……下に着く前に消えますよ」

だから、火事の心配は無い。

「う〜ん、そう云う問題じゃあないんだけどね。」

男は困ったように笑った。
本にしおりが挟まれ、閉じられる。

「……ラビ、くん……だよね?」
「は……?はぁ、まぁ、一応」

男は心底可笑しそうに笑った。

「一応って……面白いね。」
「……そうっすか」
「いやぁ、転属初日から屋上でサボりとは……たいしたもんだ」
「…………は?」
「はじめまして、ラビくん。ようこそ僕らの仕事場へ。」

男は煙草を咥えながらも、ひどく紳士的に手を差し伸べてきたので、ラビは思わずそのなまっ白い手を握り返してしまった。

「ゴミはゴミ箱へ、煙草は携帯灰皿へ、ってね。」
「……それって、自分のことですか」

男は曖昧に笑って、黒い携帯灰皿のふたを開けた。ラビが入れるのを確認してから、自分の煙草を入れる。パチンと蓋を閉めるのが男なりのチャイムだったようで。

「さて、行こうか」

にっこりと微笑んで先を歩く、新しい上司の後を、ラビは急いで追った。















エリートが属する部署だというからどんなに豪華なのかと考えていたが、其処はごく一般のオフィスだった。唯、デスクの数が極端に少ない。それだけ人員が不足しているということなのだろう。隣接している仮眠室にはスーツを着たままで2、3人の男達が寝ていたが、肝心のオフィスには誰も居ない。

「誰も居ないですね」
「皆、任務に行ってるからね」
「はぁ………」
「あ、そうだ。紹介しなきゃね」

何をですかと訪ねる前に腕を引かれ、仮眠室に連れ込まれる。

「神田くん、新しい相棒の到着だよ」

ラビには寝こけている男達のどれが "神田くん" なのかは勿論判らなかったが、できれば一番ゴツイのが "神田くん" でなければいいと思った。その祈りにも似た感情が神に通じたわけではないが、"神田くん" はゴツイ彼ではなかった。男に名を呼ばれ、ゆっくりと身を起こした人物は、寝不足なのだろうか、ひどく鬱陶しそうな顔で返事をする。

「あ。」

思わず漏れたラビの声は誰にも聞こえなかったようで、ほっとした。
返事をした人間は黒髪の長身。先程エレベータを共有した人物。

男だったのか。

神田はラビを一瞥するとさっさと仮眠室を後にする。
それに男とラビも続いた。

「頑張れよ」

去り際、背中に掛けられた言葉はともすれば聞き逃してしまいそうなほど小さいものだったが、ラビの耳には確り届く。振り返ってみても、ふたりの男は寝たままで、どちらが声を掛けてくれたのか判らずじまいだった。

「知っているとは思うけど、ウチは組織内の機密を中心に扱っていて、口外すれば本当に首が飛ぶから気をつけるように。あ、あと基本はふたり一組で行動してもらうことになっているんだ。君の相棒は、こちらの神田ユウくん。」

紹介された "神田ユウ" は無表情のまま、微動だにしない。無愛想な奴だ。まあ、物凄く愛想のいい男でも対応に困るから、別に無愛想で構わないのだが。それよりも、 "ユウ" なんて本当に女のような名前だ。絶対コンプレックスに違いない。

「同い年だけど、君の直属の上司に当たるから、仲良くするように」
「……あなたは?」
「ああ、僕?言ってなかったっけ。コムイ・リーです。一応はココの統括をしているけれど、本当に一応だから、君は神田くんの指示に従えばいいんだよ」
「はあ………」
「じゃ、さっそくだけど任務に行ってもらおうか」

コムイはデスクに無造作……というか乱雑にに置いてあった黒い薄手のファイルを2つ、ラビと神田それぞれに手渡した。なんとなくページをめくろうとするラビを、やんわりと手で制す。

「時間が無いから、移動しながら確認してね」
「……ヘリですか」

今まで黙っていた神田が静かに口を開いた。
なるほど、容姿は別として、声はしっかり男の其れだった。

「いや、車で行ってもらうよ。正面に廻しておくから」
「わかりました。」

其れを確認するとコムイはラビのほうへ向き直り、まっすぐに目を見つめてきたものだから、一体何をされるのかと身構えてしまった。が。

「いってらっしゃい」
「あ………いってきます。」

いつか、故郷で使ったきりの言葉を、よもや組織で使うことになるとは思っていなかった。

「………いくぞ」

神田がオフィスを後にし、自分も其れに続く。
丁度、下りのエレベーターが到着したところだった。





飽和状態の飢餓