「は?」
余りに素っ頓狂な声を出してしまったものだから、話相手はあからさまに嫌な顔をした。それはそうだ。部下に「は?」などと言われて悦ぶ上司は滅多に居ない。だがしかし、今朝初めて発した言葉が「は?」とはなんとも間抜けな話ではあったが、彼に他の言葉を発する余裕が無かったのだから仕方ない。
目覚まし時計と同じタイミングで電源が入ったテレビが送る、寝起きの人間にはキツいテンションの情報番組を聞き流しながらラビはトースターに食パンをセットした。ポットがないので、片手なべに水を入れて火にかける。朝はパンと濃い目のコーヒー。それが今までもこれからも、彼の基本だ。
パンをかじり、コーヒーを飲みつつ、昨日の夕方から明け方にかけてのニュースを観る。別に理由はない。唯、一人暮らしの部屋でテレビもつけずにとる朝食は余りに寂しすぎるから。番組のコーナーが事件事故から芸能に変わる時間帯になると、そろそろ家を出なければ列車に間に合わない。テレビを切って、鍵を閉めて。今日も今日とて、通勤ラッシュに揺られるのだ。これも彼の基本だった。
地下鉄のなかではウォークマンで自分の世界にこもり、地上にでて降り注ぐ太陽の光に独眼を細める。抜けるような空、というのはまさに今日の其れの為にあるような言葉で、それがラビにとってはこの上なく不快だった。暑いのは嫌いだ。
彼が彼の上司に対して「は?」といったのは、出社して自分のデスクについた直後だった。彼の上司であり、彼の所属する部の責任者でもある男、ウィンターズ・ソカロはまるで、今日飲みに行かないかとでも言うような調子で言ってのけたのだ。
「お前、今日付けで異動だから」
これに「はいそうですか。わかりました。今までお世話になりました」と言えるほどラビは物分りがいいほうではなかった。だから、聞き返すのは彼としては当然なことで、それが結果的に上司の機嫌を損ねることになっても、まぁ仕方ないわけで。盛大に舌打ちしてオフィス中を震え上がらせた後、未だに疑問符を飛ばし続けているラビに、ソカロは言った。
「今日付けで、異動だ。辞令は降りている。」
「いや、あの、……え?」
ソカロにとって本日二度目の舌打ちは、一度目よりもはるかに大きくオフィスに響いた。
「異動だ。明日から出勤。今日は帰っていいぞ。荷物をまとめておけ」
「荷物………支部に左遷ッスか?」
ソカロは深く笑みを浮かべた。たった2年の付き合いだけれど、彼がこんなふうに笑うときは余り良い事がないと、ラビは解っていた。
「 安心しろ、"ゴミ溜め" だ。」
治安維持部門。通称 "ゴミ溜め"といわれるその部門は専ら、組織に楯突く人物の暗殺を担当している。という噂があった。所属するのは暗殺に長けた、所謂その道のエリートで、何よりも任務遂行を優先し、必要と在らば、仲間や自らの命もなげうつ程の馬鹿揃い。らしい。今迄の平社員から開放されるとはいえ、情況が好転するとは、ラビには思えなかった。あの笑みだ。ソカロにも思えないのだろう。
今しがた乗ってきたばかりのエレベーターに乗り、今しがた通ってきたばかりの正面玄関をまた通った。ため息が出るのは、仕方のないことだ。
空は、出社時と同じく抜けるように何処までも真っ青で。
彼は眩しすぎる青空を睨みつけると、火をつけたばかりの煙草を踵ですり潰し、駅へと向かう。
今夜も暑くなりそうだ。
彼の予想は見事に的中。
半日かけて熱を吸収したコンクリートは憂さ晴らしでもするかのように其れを発散させた。すると必然、熱帯夜。引越し準備という肉体労働で疲れ切った身体で迎える蒸し風呂状態の夜は拷問に等しかった。シャワーを浴びるのも億劫になりながら、ベッドに腰を下ろす。元々荷物が少ないのでダンボールは4箱で済んだ。ベッドや不要な家具は親切な大家さんが処理してくれるらしい。温くなった缶ビールを飲みながら1年前に故障したままのエアコンのスイッチを無意味に連打してみるも、勿論無反応。扇風機は持っていない。仕方がないので窓を全開にし、換気扇を廻して少しでも風が通るようにしてみたが、通る風自体が生ぬるく、たいした効果は無かった。
彼は大きなため息を洩らすとそのままベッドに倒れ込む。ビールがこぼれて染みを作ったが、どうせ明日明後日には処分されるのだ、構わない。それよりも背中がタオルケットに蒸されて汗ばんできたことが気にか掛かった。
この部屋とも今日でお別れか。
新しい部署は仕事が仕事なので寮制になっている。個室か大部屋か知らないが、そこがどんな場所でも此処よりはいいに違いない。
徐々に重くなる瞼を持ち上げようとはしなかった。何故、社に忠誠を誓っていない自分が機密だらけの部署に配属されるのか。そもそも何故、田舎者の自分がこんな一流企業にスカウトされたのか。そんなことも全く気にならなかった。唯ひたすら暑くて、ひたすら眠い。コンビニで買ってきた簡易パスタを食べるのも忘れて、彼は深い眠りについた。
身体の疲れに身を任せて。
荒んだ精神に侵食されながら。
呼んで逃げる